2012年1月29日日曜日

2012年1月29日 説教要旨

主イエスと共に働く 」 ルカ9章7節~17節

 今朝の福音の物語はパンの奇跡として知られており、4つの福音書すべてに書かれている唯一の奇跡である。繰り返し、繰り返し読み継がれ、愛されて来た物語。 ここには弟子たちの抜き差しならない葛藤がある。ずっと昔から教会はそれと同じ葛藤を経験してきたのであって、この物語を読み、慰められ、励まされ、また時には悔い改めへと導かれて来たのだと思う。先週読んだように、弟子たちはイエス様に遣わされて伝道に出て行った。そして彼らの働きの成果は大きかった。領主ヘロデが12人を遣わしたイエス様に関心を抱いたほどである。弟子たちは何も持たないで出て行ったので、それらの成果はまさにイエス様のお働き、イエス様が自分たちを通して働いてくださったのだと受けとめたことだろう。その感触が生々しく残る中、イエス様は弟子たちを連れてベトサイダへと向かう。弟子たちの疲れを考慮されてのことだろう。ところがそのことを知った群集はイエス様のあとを追ってついて来た。追ってきた彼らにイエス様は心を尽くして対応される・・・・。

弟子たちには、その群衆が重くのしかかってくるように感じた。「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです』」(12節)。群集はおなかを空かしている。魂の飢えもある。だからここまで追いかけてきた。彼らは飢えたように切実に求めている。自分たちにひしひしと迫ってくる群衆。弟子たちはその求めに対応しきれない、自分たちには受け止められないと思った。だから、この飢え渇きをどこかよそで解決してもらいたいと思った。だがイエス様は言われる。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。ここにひとつの葛藤があり、戦いがある。弟子たちは彼らから解放してほしいと望む。だが主は、あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい、それはあなたがたの課題だ、この飢えた問題を持っている群集、それはあなたがたの課題だと言われる。教会は、ずっと昔から今に至るまで、いつもそういう葛藤を味わってきた。彼らの抱えている問題は大きすぎて、自分たちには手に負えない。無理だ。だから我々を解放して、別のところに彼らを送って欲しい。そういう現実もいつも、いつも経験してきたと思う。そのたびに、このパンの奇跡の物語を読み、慰められ、励まされ、あるときは悔い改めて立ち上がってきたのだと思う。私たちもここを出て行けば、それぞれの現実が待っている。私たちの周りの人たちの飢え渇き、魂の飢え、孤独がある。ある時はかわいそうだと思ったり、嘆いたり、こんなことではダメだとため息をついたり、時には「何ということだろう」と腹を立てる。私たちはこういう飢え渇く人々、問題を抱えた人々の中で生きていかねばならないのかと時に思う。もっと問題のない人々の中で、静かな生活ができればどんなにいいだろうか。そうすれば落ち着いた信仰生活ができるのではないか。この問題を抱えた人から解放されて、落ち着いた静かな生活がしたいと、時として思う。しかしイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われる、そこに踏みとどまりなさいと言われるのだ。弟子たちの答えは当然、不満に満ちたものだった。弟子たちは言う。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)。手元には5つのパンと2匹の魚しかない。食べ物を買うお金があったとしても、一体どこでこれだけの食糧を一度に調達できるか・・・私たちの手には余ると思う。

 だが弟子たちの持っているものはイエス様にとっては大切なもの。ゼロではない。主は群集を座らせてパンを取り、感謝して、賛美をして弟子たちに配らせた。イエス様は、たったこれだけではどうしょうもないとため息をついたのではない。天を仰いだのだ。天の父なる神に向かって賛美の祈りをした。そして弟子たちに配らせた。おそらく弟子たちは自分たちの持っている5つのパンと2匹の魚という現実にガッカリしていたと思う。持っているものの少なさに失望していた。しかしイエス様はそれを感謝した。そして弟子たちを通してそれを群集に配った。5と2という数字。足すと7になる。聖書では7という数字と12と言う数字は完全数と呼ばれ、神によって祝福され、用いられるという意味がある。私たちはたったこれだけのものと思い、たったこれだけでは役に立たちはしないとうつむく。そしてそれを用いない。これが、この飢えた人々の中で一体、どれだけの役に立つか・・・こんな小さな信仰が・・・と考えてしまう。しかし主はそれを差し出すように言われる。主はそれを用いて、ご自分の御業をなさることをお望みになる。あなたの持っているものはわずかだから、出さなくていいよとは言われない。弟子たちはわずかなものをイエス様に差し出し、それをもう一度、主から受け取り直して人々に配った。すると人々は満腹した。しかも残りは12の籠に一杯になったとある。イエス様は私たちの賜物を受け取ってくださり、祝福して用いてくださる。ならば私たちは自分の持っているものを主に差し出して、もう一度、主から受け取り直さなければならない。信仰を持って・・・。そして受け取って、この世の人々の中に出て行くのだ。人々の飢えを満たす働きが、この私たちにも出来るから。

2012年1月15日日曜日

2012年1月15日 説教要旨

「 旅には何も持って行ってはならない 」 ルカ9章1節~6節

 ここには伝道の働きに遣わされる弟子たちの姿とそのときに語られたイエス様の言葉が記されている。悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力を与えられて、12人の弟子たちは遣わされる。神の国の福音を言葉と力でもって証するために。私たちも毎週、捧げるこの礼拝の最後のところで派遣の言葉というのを聴く。12人の弟子たちと同じように、私たちもここから派遣されて出行く。神の国の福音の証のために。

その意味では、派遣に当たって12人の弟子たちに語られたイエス様の言葉は、私たちにとっても心すべき言葉なのである。12人のように特別な賜物が与えられていないとしても神の国の福音の証のために遣わされている点は何ら変わらない。
イエス様が語られた言葉、特に私たちの心をとらえるのは3節の言葉だと思う。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」。「袋」というのは、物を蓄えておくための袋、旅の必需品だ。しかしイエス様はそのような袋でさえ、持って行ってはならないと言われる。持って行っても、持って行かなくてもどちらでもいいよと言うのではない。はっきりと、「持って行くな」と言われる。これは、一体、どういうことなのか。皆さんも経験があると思うが、旅をする時に今まで一度も行ったことがないような所に行くのであれば、あれを持って行った方がいいかも知れない、これもあれば困らないだろう・・・あれこれ考えているうちに、いつの間にかカバンの中が一杯になってしまう。つまり、旅に出るときの荷物の大きさは、不安の大きさの現われなのである。これから行く場所に何があり、何が起きるか、分からない。だから、あれもこれも持って行きたくなる。イエス様の「旅には何も持って行ってはならない」と言う言葉は、不安を持って出て行くな、安心して出て行けと言うことなのだ。「何も持って行かなくても、旅先ですべては満たされる。必要な時に、必要な物を神様がちゃんと与えてくださる。だから思い煩わないで大丈夫だ 」、イエス様はそう宣言してくださっているのだ。

 実は、ここで語られているイエス様の言葉と全く反対のことをイエス様が語られたのをルカ福音書は伝えている。そこを読んでみると、この第9章でイエス様が語られている中身が一層はっきりする。22章35節以下、「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか』。彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言うと、イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』」。これは、イエス様が十字架にかかられる前の晩、最後の晩餐と呼ばれる食事の席の一場面で語られたもの。イエス様は第9章のことを振り返っておられる。何も持たないで行っても大丈夫だっただろうと。しかしここでは、財布のある者はそれを持って行け。袋も。剣のない者は服を売ってそれを買えと。なぜ、このようなことを言われるのか。 イエス様には、このときご自分を見捨てて離れて行く弟子たちの姿が見えていた。そして、ご自分から離れて行く者がどういう者にならざるを得ないかを語られたのである。つまり、イエス様を見捨てて離れて行く者は、財布も、袋も、剣も必要な者になってしまうのである。自分の命を、自分の生活を自分で守り、支えなければならい者は、どうしたって財布も、袋も、そして最後には剣さえも必要な人間になってしまうのであるイエス様は何と鋭く、人の心を見ておられることか。イエス様は不安の持つ本当の恐ろしさを見ておられる。私たちが不安を抱えるとき、富が必要になる。蓄えを確保したくなる、そして、不安が求めて行く最後のものは剣。人を刺し殺す、人を殺すことによってしか、自分を守ることができない・・・不安というものは私たちをそこまで追い込むものなのである。
弟子たちはイエス様が復活される朝まで、皆でひとつの家に集って戸を堅く閉じて身を隠す。片時も剣を手放せないような怯えきった状態で弟子たちはイースターの朝を迎える。彼らの不安の根底には罪がある。イエス様を見捨てて離れた、その罪が彼らに不安を生み出しているのである。自分の方から神を見捨てて離れて行くところから不安は始まる。だから本当に人が不安から解放されるには、その根源にある罪の問題が解決されなければならない。その罪が贖われることによって、初めて不安が取り除かれる。不安に怯える弟子たちのもとを復活の主は訪ね、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃられた。それは罪の赦しの宣言、もう剣を離しても良い、あなたたちの不安の根っこは断ち切られた。イエス様が十字架の上であなたがたの不安の根っこ、罪を断ち切ってくださった。あなたがたの罪は赦された。

「旅には何も持って行ってはならない」という言葉は、私たちに対するこのイエス様の恵みの宣言だ。あなたがたの罪は赦されている。不安を生み出すあなたの罪の根は取り除かれている。あなたは贖われた人生を生きている。だから安心して、神様にまかせて出て行っていいということ。新しい年が始まった。私たちの不安も根っこから断ち切られている。だからイエス様を信頼して新しい年を歩もう。神の国の福音の証に出て行く者は思い煩わないでいいのだ。

2012年1月8日日曜日

2012年1月8日 説教要旨

礼拝から始まる生活 」 創世記12章1節~9節

 今年の活動主題である「礼拝から始まる生活」について、創世記の第12章から導きを得たい。アブラハムの新しい生活は礼拝から始まった。つまり、神の言葉を聴くことから始まったのである。私たちが神の言葉を聴く第一の場所は礼拝である。 アブラハムはこの時、神から言こうわれた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。国、親族、あるいは父、これらはすべて、アブラハムの生活を成り立たせてきたものである。神の言葉はそこから身を引き離せと語りかけた。神の言葉は、日常の生活に没頭し、埋没しそうになる私たちを、絶えずそこから引き離し、神が示す地へと向かわせるものである。アブラハムにとってそれは約束の地、カナンであったが、私たちにとっては天の故郷である。私たちの目指す地はそこにあり、この世の生活はそこに向かう通過点でしかない。しかしあたかもそこが終着点であるかのように私たちは生きてしまう。神の言葉、礼拝は、そういう私たちを絶えず、そこから引き離し、目指す地へと向かわせる。

 約束の地を目指すアブラハムに「あなたを祝福する」と神は約束された。祝福というのは、何か良い事が与えられるとか、辛いことがあったらそれを免れることができるとか、そういう意味での祝福ではない。ただ約束の地に向かわせる。この世になじんで生きている人たちとは違う目標に向かって進んで行かせるという、それが何よりの祝福なのだ。アブラハムの子孫、イスラエルの民はエジプトを出発して長い旅の間、数々の試練を受けた。ある意味で、彼らは神の裁きを受けたのだが、その裁きは罪によって迷い出ようとするイスラエルの道を正すものであった。彼らを繰り返し正しい道に軌道修正させる。そういう意味から言うと、彼らがそこで経験した試練は、実は祝福であったと言える。日本基督教団の議長をした鈴木正久牧師は「キリスト者というのは苦難を試練として受け止めることができる人間である」と言った。信仰があろうとなかろうと人は皆、苦難に遭う。しかしキリスト者はその苦難の中に神の御手を見、それを試練と受け止める。そして悔い改め、自身の歩みを軌道修正しながら立ち直って行くと言うのである。もとより、神の祝福と言うのは、人間の頭で考えて分かりきるほど単純なものではない。ノアの洪水の物語、多くの人々にとってその水は苦難でしかなかったが、ノアにとっては地表から舟を浮かび上がらせる救いの水となったように、神の祝福は、人間には本当は分からない部分がたくさんある。だが神の示す地に向けて歩んでいる私たちは、すでに祝福の中に生きているのである。たとえ苦難のただ中にいるとしても・・・。

 その祝福の中にある歩みについて、4節、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った」と記す。ロトも一緒だった。アブラハムの甥ロトに信仰があったのかどうか、分からない。どうして彼が一緒だったのかねよく分からない。 しかし後に、このロトが彼と一緒だったということのゆえに、アブラハムの旅は大変、難儀なものになってしまう。ロトがいたために、アブラハムの生活はいつもスッキリしたものにならない。アブラハムの信仰生活にはいつもロトが付きまとっている。私たちの信仰生活にも、そういうロトがつきまとっているのではないか。これがあるためにいつもスッキリしない、簡単でなくなる。アブラハムはロトのためにいつも行き詰る。挫折する経験を繰り返す。だが、そのことがアブラハムを変えて行くのである。「この、ロトさえいなければ・・・」と思う、そのロトによってアブラハムは変えられて行く。ロトがいたために、アブラハムの礼拝はいつも切実なものになる。ロトを抱えていたために、真剣に神の言葉に聴き、神の導きを求めて祈らざるを得なくなる。神を礼拝せざるを得ない人間であり続けたのだ。そうやって、アブラハムは変えられて行く。時々、人は言う。問題が解決したら礼拝に行きますと。だがそれは逆なのだ。そうすることによって、益々神の示される道から、その軌道からそれて行ってしまう。さて、アブラハムはカナンの地に着くと、そこで何度か移動を繰り返し、移動した先々で祭壇を築いて神を礼拝する。新しい生活のためにそこでやらなくてはならないことが山ほどある。しかしアブラハムはそこで礼拝から始める。なぜなら、礼拝、神の言葉を聴くことが彼の生活の土台だからだ。アブラハムの生活は、礼拝によって秩序づけられて行く。何をやり、何をやらないか、生きるための段取りが礼拝を通してなされていく。たくさんのことを全部やってしまうということが、必ずしも良い生活ではない。何を大事にするか、何を取り、何を捨てるか、そういうことが行なわれなければならない。そして、それをなさしめるのが礼拝、そこで聴く神の言葉なのである。忙しいから礼拝に行かない・・・。逆である。忙しいからこそ、自分の人生をしっかりと秩序付けて行かなければならない。礼拝という深い土台から築き上げていかなければならないのではないのか。信仰を持たない人たちの中で、それに流されないで神の約束を信じて生きて行く。そのためにアブラハムは神の名を呼ばずにはいられなかった。私たちの信仰とはそういう切実なものである。赤ん坊が大きな声で、母親を呼びながら自分の命を守って行くように、私たちも主の名を呼ばないでは生きられない。2012年の歩みが始まった。さあ、私たちも礼拝から始めよう。

2012年1月1日日曜日

2012年1月1日 説教要旨

主は与え、主は奪う 」 ヨブ記1章1節~22節

ヨブ記のテーマは「苦難」であると考えられているが、その最初のところに神とサタンの対話の場面が出て来る。ここでの神に対するサタンの言い分は、「人は利益もないのに神を敬うだろうか。つまり、人は本来、神とは無関係でいられるのだけれども、利益が欲しいから人は神を求めるのではないか」というもの。だからもし、その特典というか、ご利益というものがないならば、人は神を敬わないだろうと。ヨブは多くの財産を持ち、子どもに恵まれ、栄えている富豪だか、彼はその受けたご利益に応じて神を敬っているだけで、もし不利益がそこに起これば、おそらく神を呪うだろうとサタンは言う。サタンに対して、「じゃあ好きなようにしてみるが良い」と神はサタンが試みることを許された。その結果として、地上ではヨブの苦難の物語が始まるのである。ヨブは一日にしてすべての財産を失うことになる。

ヨブの牛が畑を耕し、ロバが草を食べている。実にのどかな平和な光景。この平和な光景が、シェバ人が襲うことによって暗転してしまった。その報告をまだ聴き終わらないうちに、彼の財産である羊が、天からの火によって焼け死んで、皆、死んでしまった。その羊の番をしていた召使いたちも、ひとりを残して皆、死んでしまったという。「天からの火が降って」というのは火山の爆発を意味するものと言われる。すると、そこにもうひとつの報告が入る。今度はらくだ。カルデア人が三部隊に分かれて襲ってくる。ということは、それは計画的犯行。逃げ場がないような形で襲ってきて、略奪をほしいままにした。さらに、もうひとつの報告が入る。ヨブの子どもたちが宴会をしているところに突風が吹き、家をつぶしてしまい、子どもたちは皆、死んでしまった。次々と寄せられるこれらの報告には「何でこんな事が」という思いと同時に、神への不信ということが背後に隠されているだろう。「何もしていないのに、こんなことになるなんて。神を信じても何の利益もないではないか。それどころか、ひどい目に遭うことだってあるではないか、それでも神を信じることに意味があるのか」、という問いである。

 もちろん私たちの人生、楽に生きることはできないと私たちはよく知っている。何事もなく、平穏に一年が過ぎるなんてあり得ない。私たちは一年、一年、年を取る。弱る。あるいは仕事のことで何があるか分からない。波風が襲う。そして負い続けなければならない重荷も依然としてある。それは何も変わらない。だから何事でも起こりうるのだ。私たちはそういう人生に対して、この報告のように、何となく恨みがましくなる。私はとりわけ悪いこともしていないのに、何でこんなことが私の身に起こるのか。何で私の回りにこんな悪い隣人がいるのか、と恨みがましい気持ちになる。一旦、そうやって私たちは倒れてしまったり、つまずいたりすると「ほれ見ろ、何だ」という思いにとらわれてしまう。

 しかしそこで、「ヨブは立ち上がり」と書いてある(20節)。この「立ち上がり」という表現は、ヨブが打ちのめされていたことを前提としている表現。ヨブは報告を聴くたびに滅入って行った。「もうこれでたくさんだ」と思っているところに、悪い報告が次々と入るからヨブはもう打ちのめされてペチャンコになっていた。だから「立ち上がり」と書いてあるのだ。ヨブは信仰によって決然と立ち上がった。打ちのめされているヨブが「信仰のゆえに」そういう状況の中ら立ち上がった。この人生の降り積もる苦難の中でヨブは立ち上がる。信仰が人を立ち上がらせる。信仰こそが人を立ち上がらせる。他の何でもない。それでも神を信じようという信仰こそが人を立ち上がらせるのだ。そして言う「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(21節)と。人間は皆そうだ。私たちも人生で色々なものを受け取りながら生きて行く。この世の色々な生活をするために必要なものもあるし、あるいは人から与えられる名誉や賞賛もあるかも知れない。色々なものを身につけながら生きているが、最後は裸で帰る。色々なものをひとつひとつ剥ぎ取りながら・・・というか、失いながら。どんなに私たちが「これは大事だから取って置きたい」と言っても、最後は手放さなければならない。これは普遍的な真理と言っていい。私たちの人生は与えられ、そして奪われるということがある人生だ。しかしヨブの言葉はそこで終わってはいない。主は与え、主は奪う・・・そこには与え、奪うという主体がおられる。主語がある。それは神、神が与え、神が奪う。サタンが奪うのでもなく、悪意を持つ隣人が奪うのでもない。私の人生の主語は神、神が主語なのである。その神が私たちの人生の主語として、最後まで責任をもって関わっていてくださる。その信仰こそが人を困難の中で立ち上がらせる。私たちはその神と出会いながら、その神に聴きながら、その神に祈りながら生きて行くことができる。たとえ、何かがなくなって行くとしても、神に聴きながら、神に祈りながら生きて行くことができる。私たちにとって最終的になくてはならないものは物ではない。地位でも、人からの評価でもない。自分と向き合って、この私の声を聞いてくださり、私に語りかけてくださる方がおられるということ、そのことが私たちの真の生きる支えなのである。先日、武井姉、神宮字姉を訪ね、まさにその現実に触れ、力づけられた。