2012年12月30日日曜日

2012年12月30日 説教要旨


「 神の憐れみが届く所 」 ルカ18章9節~14節

今年最後の礼拝、一年の終わりの時期というのは、一年を振り返って恵みを数えたり、あるいは至らなかったことを悔い改めたりする時を持つもの。今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は、そういう私たちに自己吟味の助けとなるような箇所だと思う。この話は「たとえ」と言われているが、とても作り話とは思えない。ノンフィクションでも見ているかのように、私たち人間の姿を克明に見せてくれているたとえ話である。

 2人の礼拝者の姿が語られている。ひとりは、ファリサイ派の人間。彼は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」を代表する人物として登場している。彼は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言っているが、これは当時の規定以上のことであって、彼の信仰の熱心さを証するものである。しかしその彼が、礼拝後、神に義とされて家に帰ることはできなかったと言うのである。「義とされる」というのは、正義感があるとか、道徳的な意味で正しいということではなくて、神と正しい関係にあるという事。このファリサイ人は「あなたは私と正しい関わりにある」と、神に言っていただけなかったのである。それはなぜだろうか。

その理由は、彼の祈りの中に明確に現れている。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」という彼の祈りには、神に何かを求めるという姿勢はない。徴税人のように赦しを求めることもないし、何か自分の欠けているものを満たしてくださいというものもない。むしろ、自分の立派さを主張しているだけで、神様に何かをしていただかなくても、自分は十分にやっていけますという誇りに満ちた姿勢でしかない。彼は「感謝します」と言っているが、神を頼らなくても自分の力でやっていける、そういうところでなお語られる感謝の言葉は、何と空しい言葉であろうか。イエス様は、このファリサイ人を自分は正しい人間だとうぬぼれていると言っておられるが、「うぬぼれて」は、原文はギリシャ語は「信頼する」という意味もあり、マタイ27章43節ではそのように訳されている。このファリサイ人は自分の正しさに信頼しているのである。あの十字架の上で人々からの嘲りを受けながら、なおも神に信頼したイエス様の信頼と同じような信頼を自分自身に対して抱いているのである。言い換えると、神を必要としないということ。神を必要としないほどに、自分の正しさを、自分の力を信頼しているのである。ファリサイ人の祈りには、神のお姿が一向に見えてこない。徴税人の祈りでは、罪人を憐れむ神のお姿が段々と大きくなってくるのだが、ファリサイ人の祈りには神のお姿が見えてこない。私たち人間は、真に神が見えなくなる時、隣人のみが見えるようになる。その隣人が大きく見えれば劣等感になるし、小さく見えれば優越感になる。神なしに隣人を見ると、必ず、この2つのどちらかになる。彼は他人を見下した。他者を見下すというのは、神から与えられたに過ぎないものを、その源から引き離して、自分の所有物にしてしまい、神の力と助けによってのみ可能となったことを自分の功績にしてしまうことから生まれる。ただ神様の恵みのゆえに可能となるような信仰の歩みだということを真剣に受け止めているならば、それが他者を見下す材料となることはない。私たちは何と、この過ちを犯してしまうことだろうか。自分の努力で勝ち取ったものも、本当は神に与えられた才能があってこそ、実を結べるものでしかないのに。それなのに、いつの間にかそれを自分の功績と考え、他者を見下す材料としてしまうなんて。ファリサイ人の立派な信仰生活だって、神の賜物があってこそ初めて可能となるものだったのに・・・。

一方の徴税人は、「遠く離れて」立っていた。ファリサイ人の立つ位置までは来られないのだ。この人は、普通の人がするように自分はできないと思っている。ファリサイ人のように、胸を張って祈ることなど、当然できない。むしろ反対に胸を打ちたたく。だからと言って、神から完全に離れてしまうこともできないのである。遠く離れていても、自分は目を天に向けることができなくても、神には目を向けていただきたいと思っている。神の方で自分の祈りに耳を傾けてくださるなら、神が私を赦してくださることも起きるのではないか。いや、神が自分を赦してくださらなかったら、一体自分は何を頼りに生きていけるのか。そういう思いで神の憐れみにすがっている。彼は・・・神に義とされて帰って行った。自らの弱さを知る謙遜な教会でありたい。ファリサイ人たちのように、自分たちは立派で、あとの人たちは駄目だ、みたいな教会に誰が来るであろうか。むしろ、この徴税人のように、神の御前に胸を打ち叩くことを知っている教会でありたい。それほど弱く、貧しい存在なのに、しかし神はそれを憐れんで救ってくださる。そう信じているところに人は集まるもの。自分も弱くても大丈夫だと思えるから・・・・。 

聖書日課 1月1日〜6日


成瀬教会 <聖書日課>  1月1日~6日

 今年の成瀬教会の活動標語は『神様と出会う』です。私たちが神様と出会うのは、何よりも聖書の言葉を通してです。日曜日の礼拝だけでなく、毎日、聖書を読むことを通しても、私たちは神様と出会うことができます。今年の前半は、マタイによる福音書を少しずつ読み進めて生きたいと思います。どうぞ、成瀬教会の聖書日課に参加し、皆で同じ御言葉に触れ、その恵みを互いに分かち合い、兄弟姉妹の絆をさらに深めてまいりましょう。


1月1日(火)マタイ1章1節~17節
  イエス・キリストの系図。あなたの家には、系図があるでしょうか。本来、系図というものは、その血筋を誇るために用いられますね。ところがイエス・キリストの系図はそうではありません。この系図の中には、ユダヤ人が蔑んだ異邦人のルツや遊女ラハブの名前、さらにはダビデが部下ウリヤから略奪した妻のことまでも書かれています。つまり、自ら恥をさらすような系図になっているのです。この系図は、イエス・キリストが人間の罪に連座してくださったという恵みを語る系図なのです。「 こんな私なのに 」と思うあなたに、キリストはつながってくださる方なのです。そしてあなたの罪という重荷を共に担い、引き受けてくださるのです。あなたは、自分ひとりで重荷を担っているのではありませんよ。

1月2日(水)マタイ1章18節~25節
 ヨセフは、いいなづけのマリアが自分の知らないところで身ごもったので、表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。これは律法の規定に照らすと、かなり温情的な措置です。石打ちにさえ値する事柄でしたから。しかし、決心はしたものの、本当にこれで良いのかと、ヨセフはなおも考え続け(20節)、行動に移せないままでいました。そんなヨセフが、神の夢によるお告げを受け、決心と正反対の方向に進み出します。人間的判断で簡単に事を済まさず、本当にこれでいいのか、と神様の前に問い続け、考え続けることが神様の祝福につながったのです。あなたは、どうしていますか。

1月3日(木)マタイ2章1節~12節
 占星術の学者たちは、幼子イエス様を礼拝したとき、彼らの宝を捧げました。彼らが捧げた黄金、乳香、没薬は、占いをするときに使った道具だったと言われています。つまり、商売道具を手放してしまったわけです。私たちは、自分の生活のためのいろいろなことで思い煩ってしまいます。しかし、イエス様を礼拝して行くとき、どうしても手離せなかった生活上の問題を、イエス様にお委ねして行くことができるようになります。学者たちは、本当に捧げるべき方に、自分の大切な事柄を委ねたとき、平安のうちに帰っていくことができました。これは絶対に手離せない、手離したくないと言って、私たちはかえって自分の手の中でそれをつぶしてしまうのです。イエス様に向かってそれを手離してみよう。

1月4日(金)マタイ2章13節~15節
 神様は、私たちの人生を導いてくださっています。それは、逃げて、とどまっているような時があり、呼び出される時があります。それは、静かに待つ時があり、積極的に活動する時がある、と言い換えてもいいでしょう。でも、真相は静かに待つ時に蓄えられるものが、実際に活動する時を支える力になるのですよ。毎日、聖書日課をしていますか。このわずかな時が、あなたの一日の長い活動を支える力になるのです。聖書日課を読んだ日と読まない日では、一日の疲れ方が違ってくるものです。さあ、今日も御言葉から始めましょう。

1月5日(土)マタイ2章16節~18節
 ヘロデは残忍な王様ですね。でも、私たちはヘロデとかけ離れた人間なのだろうかと、考えるのです。ヘロデは自分の王位が、王として生まれた幼子によって奪われるのではないかという不安にかられていたのです。失う不安というものは、恐ろしいですね。人の心に入り込んだ不安は、次第に増長し、最後には「 自分を守るために(自分が失わないために)、相手を殺す(相手に失わせる) 」というところまで行き着いてしまうものなのです。大切なものをイエス様に手放し、平安のうちに出て行った占星術の学者たちとは対照的な姿を見る思いがします。「平和があるように」というイエス様のお約束の宣言をいつも心に響かせていないと、不安から逃れる術はありませんね。

1月6日(日)マタイ2章19節~23節
 13節~15節のところ、16節~18節のところ、そして19節~23節のところと、すべてのところに「 主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった 」という主旨のことが記されていますね。幼子イエス様の身には、父なる神様が予め定められたこと以外は起きなかったということです。すべてのことは・・・それがたとえ辛すぎることであっても・・・・神様の御手の外にあるような事ではないのです。神の御子イエス様と共に歩む私たちの身にも、同様に、父なる神様が予め定められたこと以外は起きないのです。それが信仰者である私たちに与えられている優れた慰めなのです。この出来事は、神様のあずかり知らぬところで起きている事なんだって・・・・そんなこと、考えただけでも恐ろしいことですね。御手の中で起こっている事だからこそ、希望はまだあると言えるのです。

2012年12月23日日曜日

2012年12月23日 説教要旨


「 御子の生まれし所 」 マタイ2章13節~23節

主がお生まれになった家畜小屋は、ベツレヘムという町にあった。都エルサレムから南に8キロほど下ったところにある町。その名前は、ヘブライ語で「パンの家」という意味である。「わたしはいのちのパンである」と言われた主の言葉を思い起こす。パンの家とはメルヘンチックな感じがするが、ベツレヘムはその名前とは裏腹に数多くの悲しみを見続けてきた町なのである。創世記第35章16節以下、ヤコブの最愛の妻ラケルの出産の場面である。ラケルは自らの命と引き換えに、我が子を出産しようとしていた。ラケルは最初の子、ヨセフを産んだとき、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださるように」と願った。その願いがかなえられようとしている今、ラケルの命は取り去られようとしているのだ。神様の聖なるご意志とは言え、ラケルはこの現実を受け入れることができなかった。ラケルは最後の息を引き取ろうとするときに、我が子にベン・オニ・・・わたしの苦しみの子と命名しようとした。我が子が生涯、若くして死んだ母を記念して、悲しみの中にたたずんで生きるようにとの願いをその名前に込めようとしたのだ。しかし夫ヤコブは、我が子が生涯、この名を引きずって歩むことを望まず、ベニ・ヤミン、幸いの子と命名した。ヤコブは生まれたばかりの我が子が、悲しみの方向に生きるのではなく、幸いの方向に生きることを願ったのである。こうしてラケルの遺体は、エフラタ(今日のベツレヘム)に向かう道の傍らに葬られた。ベツレヘムは、ラケルが我が子と一緒に到達することができなかった、母ラケルの悲しみが注がれた町なのである。

それから何百年も後、預言者エレミヤの時代、ユダヤの国がバビロンという国に滅ぼされ、ユダヤの民は捕囚となって、バビロンに連れ去られて行ってしまう。そのとき、再びベツレヘムは母親たちの悲しみの町となった。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(エレミヤ書31章15節)。イスラエルの民が捕虜としてバビロンに連れて行かれるときに、ベツレヘムは集結を命じられた町となった。バビロンは自国に有益と判断された者たちをこぞって捕虜として連れて行った。やはり、若い人たちが多かった。彼らはベツレヘムの地に集められ、そこから異郷の地バビロンへと連れて行かれた。捕虜となってベツレヘムを出発して行く息子たちの姿を見て、母親たちは耐え切れずに涙を流した。愛する我が子を取り去られた母の悲しみを、預言者エレミヤはあのラケルの悲しみに重ねたのだ。ベツレヘムは、捕囚に連れて行かれる我が子を悲しむ母親たちの悲しみの涙が流された町となった。

それからさらに600年、再びベツレヘムに悲劇が起こった。ユダヤの王ヘロデの命令により、ベツレヘムとその周辺一帯にいた幼児の大虐殺が行われたのである。ヘロデは、ベツレヘムで王としてお生まれになった御子を、自分の王位を奪う者として、そのまま生かしておくわけには行かないと思った。しかし東方の学者たちは御子を拝んだあと、ヘロデのところに戻らなかった。そのため王として生まれた赤子がどの子なのか、確定することができず、結局ヘロデはベツレヘムとその周辺の町々に住む赤子と幼児までも殺してしまったのである。愛する我が子が理由もなく殺され、悲しむ母親たちの叫びが再びこの町に響いた。ラケルの墓の前で再び悲劇が起きたのだ。マタイはラケルの悲しみと重ね合わせて、あのエレミヤの預言の言葉を引用している。このように、ベツレヘムは多くの母親たちの涙が流されてきた地。愛する我が子との間を無理やり引き裂かれるという悲劇が繰り返された地なのである。どうすることもできない歴史の現実、不条理・・・それらを引き起こす人間の罪という現実の前で、無力の涙が流された地である。しかしそのベツレヘムの地に救い主イエスはお生まれになられた。それは、母の悲しみの現実を生んだ人間の罪のただ中に、イエス様は生まれて来られたということなのである。ヘロデによる幼児虐殺の出来事を読んで、イエス様がベツレヘムに生まれたばっかりにこんなことが起きてしまったのだと思うかも知れないが、ヘロデのような人間が王として君臨していることこそが問題なのである。世の中には、そのような不条理なことがたくさんある。「何で・・・」と言いたくなることが一杯ある。主はその悲しみのただ中に入って来られた。私たちの悲しみの中に共に立つためである。

考えてみると、主のご生涯は、罪の痛みと不条理の中に立ち続けるご生涯であった。神の御子であるのに家畜小屋に生まれ、愛に生きたにもかかわらず、指導者たちからは排斥され、その行き着いた先は十字架であった。十字架上での最後の言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、主が最後まで人間の罪と不条理の中に立たち続けられたことを示している。しかし、その叫びに父なる神は復活という恵みをもって応えられた。そのとき、不条理は主の死と共にその息の根を止められてしまった。主と共にある私たちにとって、もはや罪と不条理は力を持たなくなったのだ。罪と不条理を圧倒的に凌駕する神の愛が私たちに注がれていることが明らかになったのだから。それがクリスマスを祝う私たちひとりひとりに与えられている神の恵みである。

2012年12月16日日曜日

2012年12月16日 説教要旨


「 祈りを要請される神 」 ルカ18章1節~8節

「気を落とさずに絶えず祈らならなければならないことを教えるために」と、語られたイエス様のたとえ話。「祈らなければならない」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「祈る必要がある」となっている。一体、誰が祈りを必要としているのだろうか。祈りは「私たち」の必要が満たされるためにするものだと、当然のように考えているかも知れない。だが、このたとえ話では「イエス様」が私たちの祈りを必要としておられ、私たちに祈ることを要請しておられる、そういうたとえ話なのである。たとえ話の結びで、「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と、主は言っておられる。「人の子が来る」というのは、先週の箇所で見たように主の再臨のことである。そのとき、地上に信仰を見出すことができるだろうかと主は言われる。この言葉にはイエス様の強い願いが込められているであろう。「私は人々の信仰が満ち溢れる中で迎えられたい。それを切望している。だが、そのように満ち溢れの中で迎えてもらえるのであろうか・・・」。ここでいう信仰は、絶えざる祈りを生んでいる信仰である。祈らずにはおれないという信仰。そういう信仰の満ち溢れの中で私は迎えられたいのだと、主は言われるのである。

では、その祈りの内容は何であろうか。一人のやもめが登場する。彼女は裁判官のところに行き、必死になって「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えている。当時の社会では、生活に困窮しているやもめが数多くいたらしい。そして、やもめたちはしばしば、悪質な指導者や搾取する者たちによって虐げられていたそうだ。神の律法は、やもめたちに対して特に憐れみを施すようにと教えているが、実際には、弱い者を守るどころか、むしろ弱い者を食い物にしてしまう社会の現実があった。正義が行なわれていなかったのだ。おそらく、このやもめも何か不正なことでもって、苦しい立場に置かれてしまったのだろう。裁判官のところに来て、必死になって訴える。「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と・・・。この必死になって「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と訴えるやもめの姿の中に、主は弟子たちの姿、そして教会の姿を重ねておられるのである。主は山上の説教と呼ばれる箇所で「義に飢え乾いている者は幸いです」と言われた。義とは神の正しさ。神の正義がこの世に打ち立てられることを飢え渇くように求める者、神の正しい裁きが行なわれる日が早く来るようにと求める者は幸いだと言われたのである。このたとえも同じことを語っている。このたとえ話では、「裁く」という言葉が繰り返される。やもめが裁判官に正しい裁きを求めて食い下がったように、私たち教会に生きている者たちは、この不正がまかり通り、弱い者たちが虐げられている社会のただ中にあって、「神よ、どうぞ、あなたの裁きを行なってください。あなたの正義を打ち立ててください」と、飢え渇くように祈り続ける・・・その祈りをイエス様は切実に要請しておられるのである。神の正しい裁きが行なわれる時というのは、イエス様が再びこの世に来られる時である。その時、イエス様はすべてのものを裁き、白黒、決着をおつけになる。この世の歴史にピリオドが打たれ、そこに神の正義が打ち立てられる。主が再び来られる時というのは、神がお定めになるのであって、それがいつなのか、私たちには分からない。だが、神は私たちの祈りを用いる形で、その時をお定めになるのである。

 気を落とさないために・・とあるが、私たちは気を落としてしまうことがある。この不正な裁判官のように、「神など畏れないし、人を人とも思わない」人間が権力の座についているのだから、どうしたって、世の中が良くなるはずがない。いくら選挙に行ったところで、政治家たちだって、結局は自己保身ということが先に立って、本当になすべきことなんかしてはくれない。この世は正義が勝つなんてことはない。悪人が栄え、正しい者が馬鹿を見る不条理な世界なのだ。そう言って気を落とし、あきらめ、祈らなくなるのである。でも、このやもめはあきらめないで、必死になって食いさがった。そして裁判官の心は動く。やもめが可哀想だからではない。このままだと自分が持たないと思ったから。こんな裁判官でも訴えを聞いたのなら、「まして神は」・・・とイエス様は言われる。神は、この裁判官とは正反対の方。ならば、喜んで聴かれないはずはないと・・。困窮していたやもめ、信仰者は願い続けるより他、なす術がない。昼も夜も祈る。それは熱心であるからではない。昼も夜も問題が次々と起こり、不安が尽きないから。そして本当の解決は、この方のところにしかないと知っているから・・・。私たちはこの国が少しでも良くなるようにと選挙をし、選ばれた人たちに協力もする。だが政治の力だけでこの世の問題がすべて解決するとは思っていない。世の中の問題の根底には、人間の罪がある。エゴイズムという罪が。人間の力でその罪に勝つことはできない。罪に打ち勝てるのは主ただおひとり。だから主の再臨を切に待ち望むのである。マラナタ(主よ、来たりませ)の大合唱の中で主をお迎えしようと、祈りの火をともし続ける、それが教会。クリスマスの日、後に主を殺してしまうような不信仰に満ちた世に、イエス様は飛び込んで来てくださった。ならば、マラナタの祈りが満ち溢れているならば、主は速やかに喜んで来てくださらないはずがない。

2012年12月9日日曜日

2012年12月9日 説教要旨


先週の説教要旨 「 主は再び来られる 」 ルカ17章20節~37節

 世間でもクリスマスのお祝いがなされている。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日だという理解は持ちながら祝っているようだ。それはありがたいことである。しかし、教会のクリスマスの祝いと世間のそれとには決定的な違いがある。教会のクリスマスの祝いには、御子がお生まれになったことを喜ぶだけでなく、その御子が再びこの地上に来られることを待とうという希望が込められている。今朝の箇所は、御子の再臨についての言葉が語られている。その発端となったのはファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」との問い。彼らはまだ神の国は来ていないと思っていた。神の国というのは「神の支配」のこと。ファリサイ人たちは、もし神の支配がここに来たならば、ローマ帝国の植民地と化しているユダヤの国は今すぐ解放される。そしてダビデ時代のような繁栄した国へと復興されると考えていた。そのような解放をもたらす者こそ、救い主メシアなのだと考えていた。救い主であるイエス様は、もう彼らの間に来ておられるのだが、神の国の到来=ローマからの解放と考えていた彼らにはイエス様がなさっている働きを見ても、神の国が来たとは思えなかったのである。

神の国の到来に関して、旧約聖書が予言していることは足の不自由な人、目の不自由な人、耳の不自由な人が癒されるということが起きると言う。弱き者が立てるようになるのだ。あるいは、狼と子羊が共に住み、若牛と若獅子が草を食べ、乳飲み子がまむしの穴に手を入れるというように、弱肉強食の姿はなくなり、「愛の原理」が世を支配するようになる。神の国が来るとそういうしるしが現れるというのだ。愛に対立する原理は、罪の原理である。人間にエゴイスティックという罪がある限り、愛の原理が働く世の中になることはない。だからこそ、救い主は、人間の罪を取り除くための闘いをされているのだ。そのための究極の業として、主は十字架におかかりになる(25節)。救い主は、この世界が神の支配を中心とした愛の原理のみが働く世界とするための御業に集中される。それが救いなのであって、武力によるローマからの解放が救いなのではない。ファリサイ人たちにはそれが分からない。

 イエス様が来られたことによって、その救いの御業が始まった。神の国が始まったのである。だが、完成はしていない。その完成は、再び、イエス様が来られるとき、そう、再臨のときに完成するのである。その時までは、始まったけれども、途上にあるのである。それゆえに、弟子たちには戦いがある。神の国の完成へと向けて、少しでも愛の原理が働く世界となっていくための闘いがあるのである。忍耐が求められる。終わりまで耐え忍ぶことが求められる。そのことをおもんばかって、イエス様は弟子たちにも語られる(22節以降)。ここで言われていることの要点は、イエス様が再び来られるのは、突然のことであって、しかしそれは必ず、起こることだ。それを「確信」をもって待てばよいということ。イエス様は思いがけないときに来られる。稲妻がビカッと光るのが私たちにとって突然の出来事であるのと同様、イエス様も突然やって来られる。思いがけない時に来られるのだ。だから、イエス様が来られることにおのが目標を定めて、生きていなければならない。ノアの時代の人たちは、洪水が起こるなんて信じていなかった。ロトのときもそう。滅びが襲うなんて信じていなかった。それと同じように、人の子(救い主を指す表現)の再臨が起こるなんて全く信じられない、というようなことではいけないとイエス様は言われる。「人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり」と、日常生活をしている。しかしその日常性はいつまでも続くものではないのだ。どこかで断ち切られる。主による終わりがある。その終わりを計算に入れて今を生きているかどうか、それが問題なのだと主は言われる。

 主の再臨が起きるとき、一人は連れて行かれ、一人は残ると言う(35節)。救われる者と滅びる者との一線が現れるのだ。それまで全く隠れて見えていなかった一線が突然現れる。これまでひとつの絆で結ばれていて、何もかも一緒に体験していると思い込んでいた者たちの間に、断絶が生まれる。日常生活では隠れていた一線が浮かび上がる。永遠との関わりはそのように厳しく人を分けるのだ。「死体のある所には、はげたかが集まる」という言葉の意味は、主の再臨は、救いと滅びを地にもたらすということなのである。

 私たちは再臨ということをどれほど期待しているだろうか。切望しているだろうか。再臨の時は、罪からの完全な解放であり、愛の原理が完全に私たちの生の原理となる時。そのことを切望する姿勢は、私たちが愛に真剣に生きようとすることなしには起きない。愛の原理に生き得ない社会の罪、そしてその社会を形作っている一員である自分自身の罪、それと向き合わされ、何としてもそれから解放されたいと切望させられるのでなければ、再臨信仰が私たちの生活の根幹となることはない。愛に生きることと再臨を待つこととは深く結びついている。主の再臨を切望し、自らの愛の貧しさに耐え続けているとき、その自分を背後から支えてくださっている方がおられることに出会う。だから前を見ることができる。先になお苦しみがあるとしても、背後にある主の苦しみが私たちを支えている。

2012年12月2日日曜日

2012月12月2日 説教要旨


「 感謝を生む心 」 ルカ17章11節~19節

イエス様がエルサレムに上る途中、重い皮膚病に苦しんでいた10人の人を癒された話。病を癒された10人のうち、ただ一人だけがイエス様の元に戻って来て感謝した。なぜ1人しか戻って来なかったのか、私たちの関心をひく。主は戻って来た1人を外国人と呼んでおられる。さらにルカはわざわざ「この人はサマリア人だった」と書いている。この出来事はユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられているのである。おそらく10人のうち9人はユダヤ人で、主の元に戻って来た人だけがサマリア人であったのだろう。ユダヤ人とサマリア人は極めて仲が悪かった。サマリア人はユダヤ人が他民族と結婚して混血になった人たちのこと。神に選ばれた特別な民族であることに誇りを持っていたユダヤ人たちからすると、彼らは民族の誇りを捨ててしまった人たちであり、軽蔑すべき存在だった。そんな彼らがここでは一緒になってイエス様に助けを求めた。重い皮膚病という同じ苦しみを味わっているという事実が、彼らの間の障壁を取り去り、そこに深い絆を生んでいた。重い皮膚病にかかった者は、この当時、「神に捨てられた者」と見なされていた。神に棄てられた汚れた存在として、社会から隔離されて人目に触れぬよう、町外れでひっそりと暮らさなくてはならなかった。遠く離れたところに立ち、10人があたかもひとつの声のようになって叫ぶ、その姿をご覧になってイエス様は「祭司たちのところに行ってからだを見せなさい」と命じられた。当時、この病気が治ったか、否かを判定するのは祭司たちの役目だったからである。10人はすぐにイエス様のご命令に従った。だがその途中、サマリア人は自分が癒されていることに気がついて、向きを変えてイエス様のところに向かう。あのイエス様を遣わしてくださった神様が私を癒してくださったと、神様をほめたたえながらイエス様の元へと向かう。しかし他の9人は別行動を取った。彼らは祭司のところへ行くことを優先した。何がこの違いを生んだのか、聖書には何の説明もされていない。だが、この出来事がユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられていることからその理由を推測することができる。9人のユダヤ人たちは、自分たちが癒されたことを「神の恵みだ」と思わなかったのだ。むしろ癒されて当然、当たり前のことが起こったのだ。そもそも神に選ばれた民である自分たちがあんな病気になること事態、あってはならないことだったのだと思ったのである。しかし自分は神に捨てられた民族の一人であって、恵みに与る資格もないと思っていたサマリア人は、癒されたとき、それは恵み以外の何ものでもないと思ったのである。神の恵みの受け止め方がまるで違った。それが両者の違いを生んだのである。当たり前だと思う心からは、不平は生まれても感謝は生まれない。私たちは、本当は神様からの恵みであるのに、それが当たり前のことように考えてしまっている、そういうことがたくさんあるのではないか。健康であること、仕事がうまく行くこと、安定した暮らしができていること、それは自分が努力した結果であって当たり前のことなのだ。そう考えてはいないだろうか。しかしそれは本当に当たり前のことなのだろうか。入院中の山岡文姉が胃ろうをやめて自分の口で栄養を摂取できるようになった。「感謝です。感謝です。こんなにしていただいて」と山岡姉は言う。私たち健康な人間にとっては、口から物を食べられるというのは当たり前のことに過ぎないが、一度でも病気をした人間からすれば、それは決して当たり前のことではなく、神の恵みとして受け止められているのである。もうひとつのことを学ぼう。癒された10人には社会に復帰する道が与えられた。それはどんなに大きな喜びであろうか。しかしその喜びが訪れたとき、このサマリア人は人々との関係を取り戻すことから始めるのではなく、神様との関係に深く入ることから始めようとした。神様の元から・・・そこを人生の出発点、中心にしようとしたのだ。その結果、彼だけが「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という宣言を聞くことができた。10人全員が癒された。しかしこの人だけが「救われた」と言われた。このことが示しているのは、救われるということは病気が癒されることよりもはるかに大きな恵みであるということ。救われている人間というのは、魂健やかに病むことさえ出来る。健康であること以上の祝福の中にいるから。救われている人間は、すべてのことを神様との感謝のかかわりの中で受け止め直すことができる。それは「立ち上がって、行きなさい」・・・「あなたは立ち上がれる。そして生きて行くことができる。私はあなたと共にいるから」という主の言葉を聞くことから、生きることができるから。楽譜の最初につくフラットは、最初にそれがついているだけでその曲全体を最後まで支配する。それと同じように、今こうして神様の元に戻って来て、そこから1週間を始めようとしている私たちの人生には、神様の恵みのフラットがつけられているのだ。「立ち上がって、行きなさい」という恵みのフラットが・・・。途中、悲しい調べが奏でられるようなことがあっても、その曲全体を支配しているのは、神の恵みのフラットなのだ。「ほかの九人はどこにいるのか」・・・イエス様は戻って来なかった9人を責めるのではなく、心配されている。彼らにも同じ言葉をかけたいと切望しておられる。私たちを用いて・・・。

2012年11月25日日曜日

2012年11月25日 説教要旨


「 人の力か神の力か 」 ルカ17章1節~10節

今朝の箇所には、赦し、信仰、奉仕という小見出しがつけられている。3つの異なるテーマが、バラバラに羅列されているかの印象を受けるが、「信仰とは何か」という一点でちゃんと結びついていると思われる。まず1節~4節、イエス様が弟子たちに罪を犯した者を赦すことを教えておられる。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」・・・一日に7回とはすごい。私たちなら3回目ぐらいからは「あなたちっとも悔い改めていないし、本当は悪いなんて、これっぽっちも思っていないでしょう」と文句を言いたくなるだろう。イエス様は、8回目は赦さなくてもいいと言うのではなく、徹底して赦しなさいと言われているのである。私は、時々、こういうことを思い巡らす。私たちが地上の生涯を終えると、神様の御前に立ち、それぞれの人生の報告をするときが来る。それは、今まで不十分にしか理解できていなかった神様の愛を、その高さ、深さ、広さ、長さに至るまですべてを理解する時である。 そのとき私たちは、自分が赦すことのできなかった人、和解できないままに地上の生涯を終えてしまった人、そういう人たちのことを神様はこんなにも赦しておられたのか、こんなにも愛しておられたのかと知って、恥じ入るような思いになるのではないか・・・そう思い巡らすのである。ならば、そのようなことにならないようにと願うわけだが、実際には自分の信仰を見つめると、それほどの力もないし、勇気もないとため息をついてしまう。これは、もう自分の信仰を増していただくしかないと思う。弟子たちも同じように考えたのだと思う。今の自分の信仰、小さな信仰では、徹底してどこまでも赦す心に生きることなんかできない。これはもう、信仰を増していただく、強くしていただくしかないと・・。だから弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください」と言ったのである。

 「わたしどもの信仰を増してください」、私たちも今まで幾度となく、このような祈りを繰り返してきたのではないだろうか。イエス様の御言葉に聴き従って行こうとすれば、必ずや自分の弱さを知らされ、こうした祈りを祈らざるを得なくなる。 赦すことが語られたなら、赦せない自分があることを知らされる。愛しなさいと言われたら、愛せない自分がいることに向き合わされる。喜びなさいと言われたら、喜べない自分であることを知らされる。感謝しなさいといわれたら、感謝できない自分であることを見つめさせられる。それが私たちの経験するところ。何度となく、ふがいない自分を知らされ、「私には信仰が足りない」と思う。しかし、信仰はそこから始まるのである。「イエス様は無理なことをおっしゃる」と言って、反発するのではなく、イエス様にお願いする気持ちになれたこと、そこから信仰は始まるのである。だがそこで問題となるのは、「信仰を増してください」という時に、その内容が何を意味しているか、である。弟子たちは、こう考えた。自分の中にある信仰の力は足りない。もっとその容量を増やしてもらって、私の内にある信仰が大きく、強くなるようにしてもらおう・・・。しかし、本来、信仰とはそうやって自分の中にさらに大きな力が蓄えられていく、そういうことなのだろうか。イエス様は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)と言われる。信仰を大きくしてくださいと願う弟子たちに、信仰は本当に小さなものでよいのだと言われる。イエス様は、弟子たちの信仰に欠けている何かを指摘されたのだ。しかもそれが決定的に欠けているならば、信仰がないと断定されてしまうようなことを。それがからし種一粒の信仰・・・それは何なのか。

信仰は、私たちの内側における決心だとか覚悟だと、力が大きくなることではない。本当に信じることも、御心に沿うことも適わない、何ひとつできない自分であるにもかかわらず、それでも神様がそんな自分に関わり、この自分を捕らえて働いてくださるということ、そこに信仰があるのである。神様は関わってくださる。そこに信仰を見ていく。自分の力ではない。神様の力が私たちに働きかけてくださる。その主にすべてを委ねて行く。そこに、決して欠いてはならない私たちの信仰がある。からし種一粒の信仰とはそれである。私たちは自分の信仰の力がどれほどの大きさか、どれだけの容量があるかにこだわる。しかし、信仰の急所は力の弱い私たちに神様の御手が添えられているということこそが決定的な意味を持つことなのである。イエス様が話された「取るに足りない僕の話」は、そういう自分の力、自分のしたことから解放されている信仰者の姿を示している。イエス様の言葉を冷たく感じるかも知れないが、「するべきことをしたに過ぎません」と言うようにとの言葉は、それが自分の力による者ではなく、自分を通して働かれた神様の力であることを知っている者にしかできない発言、からし種の信仰に生かされている者だけが喜んで口にできる言葉なのである。私たちの成し得たところによるのではなくて、神様の愛の中で私たちが本当に受け入れられ、恵みのうちに生かされ、用いられて行く。高慢な思いの中で、何かをなすのではなく、私たちのすべてを主に任せて、主の働きの中に生きて行く歩みを続けて行きたいと願う。

2012年11月18日日曜日

2012年11月18日 説教要旨


「 神にその名を覚えられ 」 ルカ16章19節~31節②

 16章19節以下のたとえ話は、私たち誰もが関心を持っているであろう「死んだあとの世界」が舞台となっている。しかし、地獄とはこういうところだとか、天国はこういうところなのだとか、そういうことにだけ興味を持って読むと、イエス様がここで言わんとされていることを聞き違えてしまうだろう。なぜなら、イエス様は天国とか、地獄とか、死んだ後の世界については、あまり多くをお語りにならなかったから。あまり関心を持っておられなかったのである。もし関心がおありならば、もっとそういうお話をなさったと思う。ここでも、天国とか地獄はどんなところかが、主題なのではないだろう。このたとえ話は、いろいろな解釈がなされてきた歴史がある。生前苦しんだ人には、死後には報いられ、生前いい思いをした人は、あとで苦しむことになる。そうやって、逆転が起きる。人生とは、そうやってちゃんと帳尻が合うように定められているのだという理解。また、ヨーロッパの教会ではある一時期、このラザロという人物をヨーロッパの足元にあるアフリカ大陸の象徴ととらえ、物質的に豊かなヨーロッパのキリスト者たちが、貧しいアフリカの人たちを助けることなく、見捨てているならば、地獄に行くことになると解釈したこともあった。しかしこれらの解釈は、イエス様の真意ではないと思われる。なぜなら、お金持ちが地獄に行ったのは、貧しい人たちに不親切にしたとか、生きているときに良い思いをたくさんしたからだとは言われていないからである。むしろ、お金持ちは自分の家の前にラザロがいることを許していたわけだし、食卓の残りのものもちゃんと与えていたようなのだ。加えて、ラザロが天に迎え入れられたのも、彼が愛に富んでいたからだとも書かれていない。もっと別の理由から、彼らの行く末が決まったようなのである。イエス様は何を語っておられるのか。

 そこでまず考えたいのは、このたとえ話の主役は誰か、ということ。どう読んでも、金持ちだろうと思う。実際、ラザロには一言もセリフがない。ところが主役であるはずの金持ちには名前がなく、脇役のラザロには名前がある。これはどういうことなのだろうか。そこでいろいろ調べて見ると、イエス様がなさったたとえ話の中で名前がつけられているのは、このラザロたったひとりだけなのだ。あの放蕩息子にも、不正な管理人にも名前はない。ならば、このラザロという名前にはどんな意味があるのか、興味がわいてくる。ラザロは、ヘブライ語のエルアザルという言葉をそのまま音だけをギリシャ語に移したもので、「神は助ける」という意味を持つらしい。ある者はもっと踏み込んで、神は助けるということは、「神の助けなくしては生きられない者」ということ、それがラザロの意味することだと言っていた。ラザロ、「神は助ける」、ラザロ、「神の助けなくしては生きられない者」、このことは、このたとえ話の真意を理解する大切な鍵でなる。と言うのも、ここになぜ、ラザロは天国に迎え入れられ、お金持ちはそうではなかったのか、その理由を聞き取ることができるからだ。ラザロがなぜ、天に上げられたのか。神に助けられたのである。ラザロは神に助けていただく以外には生きられなかったのである。自分の力で食べ物を手に入れることのできないラザロ、日々、神に寄り頼むしかすべがなかったであろう。真剣に願いながら生きていたであろう。そして神は、お金持ちの心をも動かして、ラザロを養われたのである。一方の金持ちは「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と言う。労働者の70日分の賃金に値するという高価な紫の衣を着て、毎日遊び暮らしていた。この「遊び暮らしていた」という言葉をある人は、「毎日、お祭りをしていた」と訳していた。お祭りというのは、後先のことを忘れて、今このときに酔いしれるもの、それが祭りの特質。このお金持ちも、自分の今の豊かさに酔いしれていたのだ。今の豊かな生活に満ち足りていて、神に助けていただく必要など感じていなかった。神に助けていただかなければ生きて行けない、そんなことは露ほども考えられなかった。お金持ちは、ラザロの名前が示す「神の憐れみによってのみ生きる」ということが、自分にも当てはまる真理であることを忘れていた。この金持ちには名前がない。しかしもし、名づけるとしたならば、彼の名前もまたラザロなのである。イエス様が語られた数多くのたとえ話の中で、ただ一度、このラザロという名前だけをおつけになられたというのは、意味のないことではない。それは、すべての人間がラザロという名前になるのだということではなかったかと思われるほどのことである。あの放蕩息子の弟の名前もラザロ、兄の名前ももちろんラザロ。ここにいる私たちひとりひとりもラザロ・・・「神の助けなくしては生きられない者」・・・そういう者を「神は助ける」。ラザロ、それが人間の本当の姿であり、すべての人間の名前なのである。

 お金持ちであれば、世間の人たちは皆、その人の名前を知っていて、ちやほやするだろう。反対にラザロのような貧しい人の名前など、誰も覚えようとはしないだろう。けれども、人に知られていなかったけれども神には知られているのである。神は世の人々が評価する人間の名前を知らず、かえって、世の知らない人の名前をご存知であられる。そう、神に声をあげ続けなければ生きられない人の名前を。私たちは皆、神にその名前を覚えられている者なのだ。

2012年11月11日日曜日

2012年11月11日 説教要旨


「人には尊ばれ、神には忌み嫌われ」 ルカ16章14節~18節

 「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(16節)。これは、イエス・キリストが来られたことによって、新しい時代が到来したことを宣言するものである。律法と預言者は、旧約聖書のことを指す表現だが、旧約の時代は救いの到来をひたすら待ち続ける時代であった。それに対して、今はその救いが到来した、新しい時代なのである。その救いの中に、人々は力ずくで入ろうとしていると言う。何か自力で入ろうとするかのように聞こえるが、人にはその中に入り込んでいく力はないのだ。入り込む力は神の側にあるのだ。ルカ14章の盛大な宴会を催した主人のたとえを思い起こそう。宴会に招待される資格のなかった者たちが、次々と宴席を埋めるために通りや小道から無理矢理に連れて来るという話であった。神様の方が力ずくで人々を神の国へとかき集める、という話。この話を思い出せば、ここの意味がより分かるのではないか。だからある人はここを「だれもが皆、激しく招かれている」と訳すべきだと言っている。イエス様の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉を連想されよう。心が貧しいというのは、「神様、あなたの憐れみにすがるより、私が救いに入ることなど考えられません」と神様の前に小さくならざるを得ない者のこと。実は、すべての人がそのような者であるはず。しかしそういう人こそが、救いの中に招き入れられると言うのである。そうやって、何の資格もない者が神様の憐れみによって神の祝福の中に生きることができる時代が到来したのである。それにもかかわらず、自分の力だとか、自分の立派さだとか、自分の正しさによって、救いの中に入ろうとする者たちがいた。それがファリサイ人たちである。14節に、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とある。一部始終というのは、イエス様が不正な管理人のたとえを語り、これを模範とするように弟子たちに言われたことを指す。ファリサイ人たちは思った。「神様は不正など、ほめられることなどない。神様は正しい人がお好きなのだ。この我々のような正しい者たちのこと・・・。このイエスという男は神様のことなど、ちっとも分かっていないではないか」・・それであざ笑ったのである。彼らは、自分の力、正しさ、その自信にあふれていた。

 そこで、イエス様は彼らに言われた。15節、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。人から賞賛される彼らの信心は、神の前では退けられ、忌み嫌われてしまうものに過ぎないと言う。なぜか・・。自分の良心によって立っているからである。神の恵み、憐れみを必要としていないからである。自分の力で、堂々と胸をはって、神様の前に自分の正しさを主張することができると思い込んでいる。それは、神様が忌み嫌われることでしかないのである。イエス様は、そういう彼らの正しさは、神様のまなざしには穴だらけであることを離縁の問題を実例に取り上げて語られた。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(18節)。神の律法には「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と書かれている。この律法の趣旨は、本来離縁は望まれるものではないが、どうしても2人がうまく行かず、これ以上、2人が一緒にいることは、互いにもっと深く傷ついてしまうことになるのであれば、別れて新しい生活をそれぞれに持った方がよいという神様の憐れみに根差すものであった。だが、当時のファリサイ人たちは、気に入らない妻を離縁するための根拠として都合よく利用していたのである。男のエゴを貫くための手段として悪用したのである。それでいて、自分たちは神の律法に忠実に生きていると主張する。彼らの「律法への正しさ」は、自分たちに都合よく解釈し、変容させられてしまった中での正しさに過ぎなかった。17節「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」とあるように、この新しい時代は、人間に都合よく骨抜きにされてしまっていた神の律法がその本来の姿を取り戻される時なのである。

 神の憐れみによって立とうとするのか、それとも、なお穴だらけでしかない自分の正しさによって立とうとするのか、そのことが問われている。ファリサイ人たちは、人々から見られることを気にして、人々から、「あの人は立派な信仰を持っている」と賞賛されることを求め、周囲の目だけが大きくなって行った・・・。しかし、人は人々だけに見られて生きているのではない。神の目にも見られている。しかしその神の目は、それに見つめられていることに気づいたとき、それを自覚したとき、自分の身勝手さ、小ささ、弱さ、愚かさを示され、のさばっていた自分の正しさが打ちのめされて、神の御前での貧しさに恥じ入り、謙りに導かれ、心を開いて上からのものに満たされることを切に祈る者とされるのである。神の目は弱い者、力のない者、傷ついた者を立たせる憐れみの目であるが、同時に、自分の力を誇り、自分の立派さを主張する者にとっては、それを厳しく退ける目である。私たちは、この神の目の中にあるとき、周囲の目を病的にまで気にする恐れ、不安から解放される。どもりの少年が礼拝で祈りを見事にしたように。

2012年11月4日日曜日

2012年11月4日 説教要旨


「 首尾一貫して 」 ルカ16章1節~13節

 なぜ、こんな話が聖書の中に書かれているのだろうか。読んだ第一印象で、そう思った方は多いと思う。イエス様がまるで不正を勧めておられるかのような、戸惑いを覚えるたとえ話である。たとえ話は通常、たとえの本体部分と、たとえの意味することを伝える解説部分とから成る(例外もあるが)。この不正な管理人のたとえでは、本体は8節の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」までである。それ以降は解説に当たるが、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」、「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と解説がいくつも折り重なり、かえって分りづらいものとなっている。これは、このたとえを聴いた最初の人たちにもよく分からなくて、こうではないか、ああではないかと、イエス様が別の機会に語られた言葉のいくつかをここに持ってきて解説を試みたせいだと考えられている。それだけ、解釈が難しかったのである。一体、イエス様は何を言わんとしてたとえ話を語られたのか。

 そこでまず、注意したいのが、このたとえがイエス様の弟子たちに対して語られたものだと言うこと(1節)。15章では3つのたとえ話をもって、「神様のもとに戻って来るように」との招きが語られていた。弟子たちはそれを聞きながら、「我々はすでにイエス様の弟子になっているのだから、これらの話は卒業してもう関係がないのだ」と、いささか呑気に聴いていたのかも知れない。そこでイエス様は、その弟子たちに向かって、「それではあなたがたにもたとえを話そう。あなたがたは、放蕩息子のように、確かに神様のもとに帰って来た。そして私の弟子となった。それでは、これからはどのように生きるのかね」と、問おうとされたのである。放蕩息子のたとえでは、父親の元に帰って来た後、彼がどういう生活をしたかは書かれていなかった。再び息子として受け入れられ、父の財産を手にした彼は、その後、どのように生きようとしただろうか。父の愛を知ったところで、どう生きようとしたか。そのことを、弟子たち自身の問題として真剣に考えさせるために、この不思議なたとえ話をお語りになったのである。

 急に矛先が自分たちに向けられて、弟子たちはビックリしたかも知れないが、それ以上にたとえの内容に驚いたに違いない。不正を働く管理人を模範としてお語りになられたのだから・・・。この管理人は自分の利益ばかりを考えている人間で、主人に対して忠誠を尽くすなどということはひとつも考えていない。主人が自分を信頼して、財産の管理を任せてくれたことをいいことに、それを横領してしまう。それがばれてしまったときに反省するどころか、もっとあこぎなことを考えた。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。それで主人に負債のある人たちをひとりひとり呼んで、主人に対する負債を減額してあげることにする。そうやって恩を売って仲間にしておけば、自分がクビになったとき、彼らが自分を迎え入れてくれるだろうと考えたと言うのである。一体、こんな男のどこがお手本なのか。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあるように、イエス様は弟子たちを光の子らと呼ぶ。そして神から離れてこの世の価値観に従って生きているこの世の子らと区別しておられる。私たちがここではっきりと知ることができるのは、この男は徹底した態度を取っているということ。首尾一貫したやり方をしていて、悪いなら、悪いことに徹している。途中で、もう悪いことはやめて、反省してやり直そうなどとは思わない。悪く生きることに徹している。中途半端ではない。イエス様が弟子たちに問うておられるのは、この徹底であろう。あなたがたは光の子として、神様の愛の光の中で新しく歩み始めているではないか。その光の子としての生き方をあなたがたは徹底しているのだろうか。放蕩息子が、父親の元に戻って来て、再び、父親から財産をもらったときに、もう一度、あのときみたいな生活をしてみたいと逆戻りすることを果して望むだろうか・・・。そんなことはない。ならば、あなたがたはどうなっているか・・・・イエス様はそれを問うておられる。光の子として生きるときに、そこには何の苦労もなくなるということはない。依然として途方に暮れることもある。行き詰り、切羽詰まることがある。そのとき、「やっぱり神様だけでは頼りない。富にも頼らねば」と、神と富と仕えようとするのではなく、覚悟を決めて、首尾一貫して神の愛を信じて生きる光の子として生きようとするか・・・。この管理人は、自分が徹底して信頼し抜いたお金の力、お金さえあれば人の心さえも抱き込むことができるのだという思いを貫き通した。そこでイエス様は「あなたがたが知っている神の愛の力は、金銭に勝るではないか。なぜ、そのことに気がつかないのか。なぜ、そのことにもっと深く立とうとしないのか。あなたがたは私の弟子、私の同志ではないか。なぜ、その光に生き抜く賢さを持たないのか」と問うておられるのだ。神の愛の光は決して消えない。たとえ、行き詰まり、途方に暮れることがあっても、あなたは神の愛の光の中を生き始めている。祝福の中に立っている。それを信じていいのだ。

2012年10月14日日曜日

2012年10月14日 説教要旨


「死の恐怖から解き放たれ」 ヘブライ2章10節~18節

東日本大震災が起きて間もない頃、横浜の入国管理局に出かける用事かあった。一時的に日本を脱出するために、再入国の手続きをしておこうとたくさんの外国人が押し寄せ、建物の周りにまで人があふれていた。その光景は、人々がいかに死を恐れているかを浮き彫りにしていた。私たちは日本人もあのとき、死の恐怖におびえていた。日常あえて考えないようにしていた「死」の現実を目の前につきつけられて、ある者たちは放射能の届かない地域に移り、放射能に汚染されていない地域の食べ物を取り寄せた。スーパーでは買占めが横行した。死への恐れが人々をそのような行動へと駆り立てていた。死の恐怖は、日常私たちの意識に上ることがなくても、私たちの心の奥深くには存在している。震災以降、人々は「絆」を大事にしたいと願うようになった。本当に困窮したときに、人と人が助け合えい、支え合える絆を持っていたいと願うのは自然なこと。しかし一方でそういう絆を求めることは、死の恐怖に対抗しようとするひとつの「努力」と見ることもできる。しかし人と人の絆だけでは死の恐怖に対抗するには十分ではないということも私たちは気がついている。死の恐怖、一体、そこから解放される道はあるのだろうか。

 ヘブライ2章10節以下は、あなたがたを死の恐怖から解放してくださる方がここにおられると語っている。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(14節、15節)。この手紙の受け取り手となった人たちは、迫害が激しくなりつつある状況に置かれていた。すなわち、迫りつつある死の予感というものがあった。彼らにとって深刻だったのは、父なる神がすべてのものをイエス・キリストに従わせられたと言われているけれども、自分たちの見るところ、いまだにすべてのものがこの方に従っている様子を見ていないということであった(7節~9節)。もし、すべてのものがこの方に従わせられているのならば、なぜ、自分たちは厳しい迫害の中で死の恐怖にさらされなければならないのか・・・深刻な問いの中にいた。そこでこの手紙は、今、確かに見ているものへと彼らの目を向けさせる。9節、「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。私たちのためにイエス様が死んでくださった。そのことだけは、今、私たちもはっきりと見ることができる。だが、そのイエス様の死こそ、死の恐怖からあなたたちを解放した恵みの事実を示しているとこの手紙は告げる。イエス様の死をしっかりと見定めよう。主の死を見定めているところには、もはや死の恐怖はなくなっているのだと励ます。なぜ、主の死を見定めているところには、死の恐怖がなくなっているのか。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼしてくださったからである(15節)。それによって、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちは解放された。ヘブライ人への手紙は、死をつかさどる者として、悪魔の存在を指摘する。死は、私たちすべての人間が必ず体験しなければならない本来的なこと。しかし悪魔は死に対する恐怖心を私たちに植え付け、私たちに隷属を強いたという。悪魔が死の恐怖を私たちにちらつかせ、死を恐れ始めるとき私たちは悪魔に服従することになり、御子に対しては不服従となっているというのである。悪魔が死の恐怖を利用して私たちを支配する。だが、そこでイエス様は私たちを死の恐怖から解放するために悪魔と戦ってくださった。私たちは、死の恐怖をもって隷属を強いる悪魔と戦っても勝つことができない。しかしそこで、イエス様が私たちに代わって戦ってくださった。その勝利はどのようなものか。死を怖がり、死の不安を抱くところで何が起こるかというと、神に対する信仰を失うことがしばしば起こる。ところがイエス様には、悪魔が隷属を強いるための手段である「死の恐怖」をちらつかせても通じなかった。主は死の恐怖の中で神への信頼を失うことなく、最後まで父なる神を呼び続けた。「わが神、わが神」と。そこにかつてない死が、悪魔の手の中にある死とは全く異なる死がそこに生まれた。そのために、もはや悪魔は死をすべてその手の中におさめることはできなくなった。死をもって人を隷属させる力を失ったのである。それが死によって悪魔を滅ぼしたということの意味。「それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い」。礼拝のただ中に共におられ、私たちを兄弟と呼んで、共に賛美してくださる主の姿が描かれている。礼拝しながらも、死の恐怖におびえている者たちを主は、「あなたは私の兄弟、私はあなたと兄弟としての絆を結んだのだ」と言ってくださる。私たちは主イエスの兄弟、主イエスと兄弟としての絆で結ばれた人間として、もはや死の恐怖に支配されることなく、死ぬことができる!!そうは言っても、なお死は怖いと思うかも知れない。死の恐怖を味わわれた主は、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる。

2012年10月7日日曜日

2012年10月7日 説教要旨


「神から心が離れて」 ルカ15章11節~32節(Ⅱ)
 
 ヘッドホンをつけて、音楽を聴きながら歩いたり、電車に乗っている人をよく見かける。ヘッドホンで聞いている音楽は、本人にしか聴こえない。そういう姿を見ていて思う。イエス様もヘッドホンを持っておられたのではないか。それで周りの者が聞いていないような音楽を聴き続けておられたのではないかと。それはどんな音楽であるか、今朝の福音の言葉をもって私たちに教えてくださっている。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」。このとき、聴こえていた音楽というのはいなくなった弟息子が帰って来た。その喜びを表す音楽。イエス様はとってもイメージ豊かな方だから、このときに響いている音楽をたとえを語りながら、実際に聴いておられたに違いない。イエス様は、放蕩息子のたとえに先立つ2つのたとえで、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と語られた。言うまでもなく、イエス様が聴いておられた音楽というのは、この天使たちのうちにある喜びの歌、しかもイエス様には音楽が聞こえているというだけでなく、天使たちが喜び踊っている姿をも思い浮かべておられたであろう。

私たちも、洗礼を受ける方が教会に与えられる時の喜びを知っている。見失われていた者が神のもとに戻って来る。神を信じて生きて行くようになる。そういう出来事が起きると、私たちはとっても喜ぶ。そのとき、天においても同じ喜びが沸き起こっているのであって、私たちの喜びというのはその天に起こる喜びのエコー、こだまのようなものである。「音楽」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「シンフォーニア」。私たちの知っているシンフォニー、「交響曲」という言葉のもとになった言葉である。「シン」、「共に」という言葉と「フォーニア」、「音」という2つの言葉が合わさってできた言葉。つまり、音が共に響きあっているということ。天にある喜びと地にある喜びが響き合っている。あるいは、共に礼拝しているひとりひとりの救われた喜びが、ここで響き合っている。それが私たちの礼拝で歌われている賛美の歌。イエス様は、そういう天にある喜びを奏でる音楽をいつも聴いておられた。信仰というのは、ひとりの罪人であるこの私が救われたために、天に大きな喜びが生まれ、天に喜びの調べが響いている。その調べを、イエス様がいつも聴いておられたように私たちも聴き続けること。絶えず、心に響かせて生きること。それが信仰である。信仰生活が続けられる急所は、この私のためにも天に大きな喜びが起こっているのだということを、絶えず、心に響かせていることである。その調べを聴きそびれてしまうとき、私たちは、神様のもとから迷い出てしまう。このたとえ話を聴いていたファリサイ人や律法学者たちがそうであった。彼らはこの喜びの調べを聞き損なっていた。いや、聴こうとはしなかったのである。

徴税人や罪人と呼ばれている人たちが悔い改めて、主が一緒に食事をしている。そこでも、喜びの調べが奏でられていただろう。しかしファリサイ人や律法学者たちは、その喜びの調べを聴いて不愉快になった。恵みに与る資格なんかないと思っている者たちが、恵みに与る姿を見て、我慢ならなかったのである。これは、私たちの中にもあることではないか。奉仕や集会出席、献金などに対して、あまり熱心とは思えない人が自分と同じ恵みを受けるのだということに、どこか素直に喜べない。「もっと熱心になって」と言いたくなるのである。そういう現実を、主は兄息子の姿としてここでお語りになっておいる。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と、父は兄息子に言った。神が当たり前とする喜びがある。しかしその当たり前が必ずしも私たちの当たり前にはならない。むしろ不平となり、明確な対立を生む。そこに罪が現れてきている。神の喜びに対して、何が私の喜びとなるか、ということにおいて神と厳しく対立している。それは罪なのである。兄息子には、弟息子をそのまんま受け入れてしまう父親の対応が、決して当たり前のこととは思えなかった。自分はちゃんとやっているから、恵みに与る資格があると思う。でも、弟にはその資格はないと考える。何か、神の前に、自分で恵みに与る資格を用意しなければ・・・と、人は思う。これは弟息子も同じであって、彼は雇い人の一人となることを条件として提示しようとしたのである。しかし、神との関係というのは、私たち人間が何かの受け入れてもらえるための条件が提示できるかどうか、ということによって成り立つのではない。人間の提示する何らかの条件などは、この方の圧倒的な慈しみの前では何の意味も持たない。私たちが神の子として受け入れられる条件は、ただ神が私たちの常識を超えて慈しみ深い方であるという、ただその一点に拠るのである。そのことに心からアーメンと感謝して受け入れるとき、私たちの歌は真に天の喜びのエコーとなる。喜びの歌をもって世に証しして行こう。この世は何かの条件、資格を満たさないと受け入れてもらえない社会、それで深く傷ついている人たちが一杯いるのだから。

2012年9月30日日曜日

2012年9月30日 説教要旨


「自由を求めて不自由になる」 ルカ15章11節~32節() 

 放蕩息子のたとえ話は、イエス様が2000年も前に「人間は神様の目にどのような姿に映っているか」をお語りになった物語であるが、その姿は現代の人間にも当てはまる鋭さを持っている。「ある人に息子が二人いた。・・・弟息子は分けてもらった財産をすべて、お金に換えて、遠い国に旅立って行った」と、この物語は始まる。2人の息子は、父親の深い愛情のもとに暮らしていた。息子たちにとって、この父親の愛のもとにいるということ、それが彼らが生きられる根拠だった。ところが弟息子は、父親のもとにいるという「命のつながり」を「お金」に交換してしまう。そこから放蕩の旅が始まる。現代の社会は、「経済性」が最優先される。つまり、神とのつながりを、お金に換えて、お金を生きる基盤に据え換えてしまった時代である。30年後に原発0を目指すという閣議決定が、経団連の強い反発によって見送られたのは、世の中が経済優先で動いていることを象徴する出来事だった。経済性を最優先することによって、人は幸せをつかめると考えているのが現代である。しかし神とのつながりを捨てたところで、人は幸せになれるのであろうか。

弟息子は、父親から生前贈与を受け、得た財産をすべてお金に換えて父親の元を離れて遠い国に旅立つ。当時のユダヤでは、生前に遺産を相続させることで、子どもに生活の基盤を早めに作らせるという習慣があった。その場合、財産の運用に関しては父親の監督指導を受けねばならなかった。弟息子は、それを嫌った。あなたの言うことなど、いちいち聴いてはいられない。父親からの制約を受けず、自分のやりたいように生きるところに、本当に自分らしい生活があるし、自由も幸せもあると考えたのだ。だがそれは・・・幻想に過ぎなかったことが次第に明らかになる。

 弟息子は、何かの仕事をするわけでもなく、放蕩の限りを尽くした。そして財産を使い果してしまったところで、飢饉に遭う。おそらく財産があった間は、彼の周りにはたくさんの仲間いたに違いない。けれども、いのちのつながりをお金に換えた世界では、一文なしの弟息子の周りには誰も助けてくれる人はいなかった。それで仕方なく、弟息子はある人のところで豚の面倒を見ることになった。でも、あまりの空腹で「豚のえさで空腹を満たしたいとさえ」、思うようになった。堕ちるところまで堕ちた弟息子は、我に返って言った。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と・・・」。

「我に返った」という言葉は、原文ギリシャ語では「自分自身の中に戻って来た」という意味の言葉である。聖書の見るところ、弟息子は自分自身の中にいなかった。自分を失っていたのである。父の元にいたとき、そこから離れないと、自分らしく、自由に生きることができなくなると思って家出をした彼だが、それは本当の自分を喪失することでしかなかったのだと聖書は言う。本当に彼らしく、自由に生きられる場所は父親のもとにあったのだと言うのである。弟息子は、堕ちるとこまで堕ちて、やっとそのことに気がついた。お父さんのもとで、お父さんの言う事に耳を傾け、お兄さんとも仲良くし、当然、そこでなさねばならない義務を果たし、一生懸命に生活をすべきであった。時には、自分のやりたくないこともやらねば、一緒に生きていくことはできない。しかし、そこでこそ、本当の自分を見つけられるのであったと・・・。弟息子は、悲惨の原因を自分が父親のもとを離れたからだと認識した。運悪く飢饉が起きたからだと環境のせいにするのではなく、助けてくれる人が一人もいなかったからだと周りの人のせいにするのでもなく、自分自身の中に原因を認めたのである。弟息子は帰る。父への謝罪の言葉を胸に・・・。一方、父親はそんな息子の帰りをずっと待ち続けていた。父親は、毎日、毎日、弟息子の帰宅を待ち続けて外に立って、遠くを眺めていた。だから、弟息子がまだ遠くにいるうちに見つけることができたのである。父親は自分の方から走り寄り、弟息子を抱いた。当時の父親は威厳を保つために人前で走ることはしなかったと言う。だが、父親は走った。そしていちばん良い服と指輪と履物を与え、言葉ではなく、行動で彼が大切な息子であることを示した。弟息子は、父の懐に抱かれる中、準備してきた謝罪の言葉を最後まで口にすることはできなかった。父親がそれを言わせなかったのである。父の慈しみの中で、弟息子は自分の命を再認識する。そう、自分の命は待たれている命だったのだと・・。自分の命は、放り出された命ではなく、どこかを漂ってやがて消滅して行く「はかない命」でもなく、待たれている命なのだと。信仰とは自分の命が待たれている命であると知ることである。神によって愛され、待たれている命。経済優先のこの世を生きる中で、傷つき、ぼろぼろになってしまう命、自分でつけてしまった傷があり、自分では何の解決も出来ない、そんな傷を持った私たちの命をそのまま受け止め、包み込んでくださる方がいる。この命を待ってくださっている方に向けて私たちは生きる。私たちの人生の終わる日、神はゴール地点で私たちを受け止めようと慈しみの手を広げて待っていてくださる。マラソンランナーのゴールを、大きなタオルを広げて包み込もうと待つ仲間のように。それが私たちの命であり、信仰であり、希望なのである。

2012年9月23日日曜日

2012年9月23日 説教要旨


喜びを分かち合われる神 」 ルカ15章8節~10節 

 親は子どもに似てくる。小さい頃は、顔立ちが似ているだけだが、成長するにつれ、声やしぐさまでそっくりになる。親はそれを喜びとするものだが、信仰にも同じことが言える。私たちが信仰を持つと、私たちは神の子として新しく生まれる。そして信仰が成長するに連れて、親である神に似てくる。イエス様に似ると言ってもいい。だから誰かに「イエス様は一体どういう方か」と問われたとき、「私を見れば、イエス様という方がどういう方であるか分かります」と答えることができるのだ。例外なく、皆そう言えるのだ。そのことを否定することは一見、謙遜であるかのように思えるが、むしろイエス様の恵みの力を軽んじる傲慢なのである。

では一体、イエス様のどこに私たちは似ると言うのか。今朝のたとえ話は、そのことを明確に語っている。ある人がドラクメ銀貨を10枚持っていた。そしてそのうちの1枚をなくしてしまい、必死になって家の中を捜す。見つけたら友達や近所の女たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいというたとえ話である。先週読んだ「いなくなった1匹の羊」のたとえでも、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」とあった。こうして見てみると、私たちがイエス様に似るということが、どういうことかがはっきりしてくる。つまり、私たちはイエス様と同じ喜びを知る。同じ喜びを喜ぶようになる、その一点において、イエス様に似るのである。 救われた人がいるときに、「ああ、あの人と共にイエス様がいてくださるのだ。あの人の傍らにイエス様がいて、あの人の深い慰めとなってくださっているのだ」、それを心から喜ぶということ。病床で長く苦しんでいる信仰の仲間がいる。「あの人に寄り添うようにイエス様が傍らにいてくださり、共に悲しんでくださっているのだ」、それを喜ぶ。不安を抱いている者がいる。「その不安のただ中にイエス様も立ってくださり、恐れるなと、声をかけてくださっている」。イエス様が、そうやってひとりひとりを捜し出し、その傍らに共にいてくださるようになる。そのことを私たちは何よりの喜びとする。イエス様の元を離れていた者がイエス様に共にいるようになることを喜ぶのである。その一点において、私たちはイエス様に似るのである。

 このたとえ話では、一緒に喜んでほしいと言われているが、一緒に捜してくれ、捜す労苦を共にしてくれとは言われていない。捜して見つけるための労苦は、持ち主だけが担っている。この女性はともし火をつけて捜す。家の中で捜しているのだが、当時の貧しい家なので窓がない。薄暗い部屋の入口の戸を開けて、狭い戸口から入り込む光だけでは小さな銀貨は到底捜せない。そこでともし火をつけて、家中をホウキで掃く。家財を注意深く動かしながら、掃いて捜す。床は石地だから注意深く掃いているうちに、ひょっとすると銀貨が石に当たり、カチンと音を立てるかも知れない。だから聞き耳を立てて掃く。彼女はたった1枚の銀貨を目で捜し、手で捜し、耳で捜し、体全体で捜している。たが、その労苦は持ち主だけが担う。長い間、この御言葉は私にとって謎であった。だが、こういうことではないかと思う。 悲しいことだが、私たちには失われたひとりの者を連れ戻すまで追い求め続けるということに限界がある。弱さという限界、愛の貧しさという限界、あるいは罪に支配されてしまうという限界があって、イエス様と一緒に最後まで追い求めていくことがではない。どこかで限界になり、それ以上、心も体も動かなくなるのである。イエス様はその限界を越えて、あなたがボロボロになってしまうまで、一緒に捜してくれないと困るよ」とは、おっしゃられないのである。むしろ「ここから先はあなたたちが追い続けることができないだろう。ここから先は私が行くから、あなたたちはここでまっておれ 」、そう言って私たちが行くことの出来ないところまで、イエス様は追い続けてくださる、そういうことではないかと思う。私たちは、イエス様が担われる捜す労苦を私たちもできうる限り担いたいと思う。しかしそうできない私たちの現実があることを正直に認めなければならないと思うし、イエス様はそういう私たちのことを退けてしまわないのである。このたとえでは、捜す労苦を担っていない者たちが同じ喜びに招かれる。あなたは同じ労苦を担っていないから喜ぶ資格はありませんよ、とはならないのである。

かつて求道者の一人の青年を最後まで追い求めきれないという辛い体験をした。そのときの裏切り者のユダを追い続けられたイエス様と出会った。ユダの後を追いかけるようにして、ユダが木に首を吊って死んだ数時間後に、ご自分も十字架の木に自らを吊るされたイエス様。それまるで陰府にまでユダを追い求めて行かれたかのようであった・・・。後に、その青年はイエス様が捜し抜いてくださり、洗礼へと導かれた。本当にひとりの失われた人を捜し、最後までそれを追い求め続けるのは、愛なしにはできないこと。教会学校の子どもたちを引率して遠足に出かけ、迷子を出してしまったときの経験をある牧師が語っている。交番に届け出たが、「どんなズボンをはいていたか、靴は、リュックの色は・・・」と聞かれ、ひとつも答えることができなかったと言う。しかしその子の母親は電話口ですべての問いに答えることができた。本当にその人に向かう愛がなければ、捜す手がかりさえも見つけられない。しかしイエス様にはそれがおありなのだ。

2012年9月16日日曜日

2012年9月16日 説教要旨


見つける喜び失う悲しみ 」 ルカ15章1節~7節 

 いなくなった1匹の羊を捜す羊飼いのたとえ話、幼い頃から教会学校に通っていた経験のある方は、この話を何度も聴いたことがあり、このたとえ話を題材にした賛美歌もよく歌ったことがあるだろう。子どもたちの大好きなお話のひとつである。イエス様も、このお話をするのは、大好きであったと私は思う。迷い出ていなくなった1匹の羊を捜し求める羊飼いの姿、「これは私のこと。私の全生涯をあらわしている物語」、そんな思いでこれを繰り返し、事あるごとに語られたに違いない。それを裏付けるように、この話はマタイとルカでは、別々の聴き手に対して語られている。マタイでは弟子たちに向けて、そしてルカではファリサイ人、律法学者に向けて語られている。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」(1節~3節、)。徴税人や罪人と呼ばれる人たちはイエス様に関心を持ち、この人の話なら聴いてみたいと集まって来たのである。徴税人、罪人と呼ばれる人たちは、当時の社会の中で、神に背いた売国奴であり、神の律法を無視する、ユダヤ人の誇りを捨てた人たち、神様が決して関心を持たないような人たちと見られていた。周りの人たちから何の関心も寄せられない、無関心にされていた人たちであった。だが、そんな自分たちでも、このイエスという方は私たちに関心を持ち、まるで家族の一人であるかのように接してくれるらしい。そんな噂を聞いて、彼らはイエス様の元に集まって来ていたのである。しかも食事まで一緒にしている。ユダヤの社会では、共に食事をするというのは、その人と運命を共にするというとても強い意味があった・・・。そういうイエス様を見てファリサイ人たちは不平を抱いた。「曲がりなりにも神の律法を教えている人間が、なぜ、そんなことをするのか。それは、われわれの地位をおとしめるような行為ではないか」と・・・。そこで、イエス様はこのたとえをお語りになった。私にとって、この人たちはいなくなった1匹の羊に等しい。私はこれらのいなくなった1匹を連れ戻すために、捜し求めているのだ。そして、もし見つかったら、喜んで、近所の人たちを招き、一緒に喜んでくれと言う。あなたがたは、今、こうして彼らが私と共に食事をしているとき、天に、どれほどの喜びが起きているか、想像もできないのかと問われるのである。

 イエス様はこのたとえを通して、私たちに天を覗き見させてくださっている。しかも、そこで聞くのは思いがけなく、私たちに関心が注がれているということ。この地上に生きている私のために、天で心を煩わせる方がおられる。しかも、私たちを十把ひとからげにしてではなく、ひとりひとりに心が向けられていると。この私のために心を煩わせる神様がおられると言うのだ。私たちは、自分がどう思われているか、ということを随分気にするところがある。朝から晩まで、ほとんど、そのことばかりを気にしているのかも知れない。だから「誰々さんがあなたのこと、こんなふうに言っていたわよ 」などと聴いたときには、顔は平静を装っても、心の中はピリピリと神経を立てる。そして、それが思わぬ誤解を生んだり、いさかいの種になったりすることがある。そんなふうに自分のことを周りの人が、どう考えているかということは、それこそ病的に神経質でさえある私たちなのだが、神様がそんな自分のために、どんなに深く心にかけていてくださるかということについては、まことに呑気なのではないだろうか。神様は私たち、ひとりひとりの生活に心を注いでくださっている。誰にも見えないところで、あなたが心の中だけで流す涙に、神様は目を留めてくださっている。誰も理解してくれないような私の苦しみに、神様のまなざしが注がれている。こんなに無数の人々の中で、何でこの私に・・・と思うかも知れないが、あなたは確かに神様にとって特別な1匹、99匹を野原に残して、追い求めるべき1匹なのである。

 この羊飼いがいなくなった1匹を見つけたときの喜びようは、半端ではない。しかしそれは裏返すと、失っていたときの悲しみはそれほど深かったということ。見つける喜びと失う悲しみは、表と裏の関係。信仰とは、自分が神のもとから迷子になり、失われた状態にいる時、深い愛に突き動かされて私たちを捜し求める方がいることを知ることではないか。そのことを喜んで受け入れることではないか。それが信仰。このたとえ話の結語には、悔い改めという言葉が出てくるが、このたとえ話では、悔い改めは、徹底して受け身である。悔い改めとは羊飼いの愛に心を開くということでしかない。この愛を受け入れ、愛に求められ、愛に連れ戻されることなのである。イエス様は、このたとえ話をファリサイ人たちに対して語られた。彼らは、罪人や徴税人を失われている大切な1匹とはみなしていなかった。だからイエス様は語られた。「あなたがたの中に・・・いるとして・・・見失った1匹を捜しまわらないだろうか」と・・・。彼らを失われた1匹とみなして欲しい。私と一緒になって彼らを求めるものになってほしいと。羊飼いは失われた羊を求めれば求めるほど、自分自身を危険にさらし深く傷ついて行く。その道は最後には十字架へと至る。私たちはそのようして見つけられた者なのだ。

2012年9月9日日曜日

2012年9月9日 説教要旨


主の弟子になる道 」 ルカ14章25節~35節 

 「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)とある。厳しすぎる言葉だろうか。「捨てる」という言葉、これはニュアンスとしては「神にお返しする」という感じである。捨てると言っても、ゴミ箱に入れるわけではない。そもそも神からいただいたものなのだから、全部、神にお返しするのである。私たちは何ひとつ持たず、裸で生まれてきた。本来、自分のものは何ひとつない。自分の持ち物ではないのに、自分のものだと思い込んで、絶対に離すまいと握り締めていたら、それをつぶしてしまう。「握り締めずに離しなさい。そうすれば、最高のものが得られる」と主は語っておられるのだ。中々そんなことはできないと思うかも知れないが、たとえばオレオレ詐欺事件に見られるように、自分の子どもを助けたいと思ったときには、親はいくらだってお金を払う。一番大切なもののためには、二番目以下のものを手離すことは本来、人間にとってできないことではないのである。その意味では、私たちにとって当たり前のことを主は語っておられると理解することができる。イエス様の弟子たる者にとって一番大切なものは神であって、神を優先順位一位にして生きるのが弟子である。そして一番大切なものを大切にするために、二番目以降のことをどうやって手離して行くかにチャレンジする。その戦いを信仰の仲間と共に励まし、支え合いながら続けて行くのが信仰生活なのだ。手離すのは惜しいことである。しかし手離すとき、全部もらえるのである。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)と主が言われたように。多くの場合、私たちは離すまいと握りつぶしてしまうのだ。自分の子どもがかわいいからと言って、ずっと手の中に入れておこうとすれば、子どもはつぶれてしまう。恋人だって、手の中に入れて管理するみたいになれば、相手は窒息すると言うだろう。私たちはこれが大事と言って離すまい、離せないと言って握り締めるのだが、それによってかえって、失ったり、つぶしたりしてしまうのである。そういう失敗をしてしまう私たちに主は、あなたが握り締めるのではなく、神に向かってそれを手離し、神にお委ねして行けば、それらのものはすべて加えて与えられるという喜びの世界を語っておられる。それが弟子として生きる者に与えられる祝福なのだ。

信仰の父と呼ばれるアブラハムは、自分の独り息子イサクを神にいけにえとして捧げようとした。イサクは彼にとって大事な跡取りであり、神の約束の担い手となる人間だった。しかしアブラハムはその子を神の命令に従い、捧げようとした。神は寸前のところでそれをやめさせ、アブラハムに再び、イサクを与えられた。この出来事は、アブラハムが二番目に大切なものを神に向かって手離す。神を信頼して委ねる。そのとき、神はそれ以上のものを与えてくださる方であることを体験した出来事である。兄弟、姉妹、家族、こんなに大事なものはないのだが、それを本当に大事にするためにも、一度、神にお返しして、神から受け取り直すことが必要だ。この子は自分のものではない。神のもの、神からお借りしている者であるから、自分の手の中に入れて支配しようとするのではなく、神のものとして、神が喜ばれるようにこの子を育てよう。それが親の務めだと考え直すようになる・・・。神から受け取り直すとき、そういう考えがその人の中に生まれる。子どもだけではない。財産、持ち物、そして自分の命、あらゆるものを一度、神にお返しして、神からお借りするものとして、これを受け止め直す。そうして行くときに、本当の意味で私たちは家族にとって祝福となる。塩のような働きを担えるようになる。

 私たちは、健康やお金、情報を握り締めようとし、いろいろなものを抱え込んでいるが、そういうものを神に向かって手離す、委ねるのだ。そうやって何もかも手離したかに見える空っぽの手を、神は持てるすべてを注いで満たしてくださる。それが信仰であり、弟子の道なのだ。神はそうやって空っぽになった手をご覧になると、満たさずにはおれない方なのだ。考えてみると、自分の手の中に一杯何かを残していたら、神が何かを与えようとしても、もう手の中には入らないではないか。今朝は敬老のお祝いをする。年を重ねるということは、今まで持っていたものをひとつひとつ手離して行くことである。自分の能力や財産、家族・友人、そして教会での集まり、そういうものをひとつひとつ神に向かって手離していく。最後は何も分からなくなってしまうこともある。それは本当にすべてを手離してしまった状態に近い。だが神はその人を満たしてくださる。永遠の命の祝福をもって。だから、年を重ねるというのは、弟子として歩みの仕上げをしていることだと思う。神に向かって、すべてのものを手離して、もっとすばらしいもので満たしていただくという信仰の仕上げのとき。今朝の箇所には、2つのたとえが組み込まれている。2つとも、「賢くある」ことを教えている。その賢さとは、神を信頼する賢さである。手離そうとしない私たちに、神は計算を超えた圧倒的な力と恵みをもって、迫って来られる。その方を前にして、「我」を張ったところで一体、何になろう。神の恵みに降参して、「あなたにお任せします」と、自分を神に明け渡すのだ。私たちの計算を超えた神の祝福が私たちに注がれるのだから。

2012年9月2日日曜日

2012年9月2日 説教要旨


神の招きを断るな 」 ルカ14章15節~24節 

 ある主人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招いた。このある主人というのは神のことである。誰かを食事に招く時、相手の喜ぶ顔を想像しながら心を込めて準備をするだろう。こういう席は、結婚式の祝いのように、招待を受けた側よりも、招待した側の喜びの方がはるかに大きい。だから招かれるというのは、招く側の大きな喜びの中に招き入れられるのである。招く側にあるこの喜びを読み取らないのであれば、このたとえ話を正しく理解することはできない。今朝は、この礼拝で聖餐が行なわれる。この聖餐も神がご用意してくださった食事の席である。このささやかなパンとぶどう液の食卓には、地上のいかなる晩餐にも勝って、招いた側の大きな喜びが込められている。前任地の教会で、それまでに経験したことのない聖餐の体験をした。聖餐のスタイルは、成瀬教会と違って会衆が順番に前に進み出て来て受けるスタイルだった。教会員の中に信仰歴70年を越える90代のご婦人がいた。聖餐を受けるとき、転ばないようにいつも裸足になっていた。後に転倒の危険を避けるため、聖餐のスタイルを変更した。その経緯をご婦人に説明に行ったとき、彼女はこう言った。「確かに、高齢の者にとって、前に進み出ることは危険が伴います。でも前に進み出ることは、私にとっては喜ばしいことでもありました。神が『さあ、あなたも来なさい』と私を招いてくださっている。神の恵みを受ける資格など全くないこの私にも神が声をかけてくださっている・・・ そう思うと喜んで前に進み出たくなるのです」と。 恵みを受けるに値しないような者が、「さあ、あなたも来なさい」と言われたら、喜んで前に進み出たくなる ・・・。神の招きに答えるというのは、まさにこういうことなのだと思った。このたとえを話の中で招かれた人々も、そのような応答の姿勢が期待されていたのだと思う。しかしこの盛大な宴会のたとえ話では、その期待に応える者はいなかった。皆、次々と招きを断ってしまった。一体、なぜなのか。最初の人は、畑を買ったので見に行かねばなりませんと断った。大きな買い物である。現物を見ないで買うなんてことはできないだろう。ある意味、仕方のない理由で招きを断ったと言える。2人目は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行くと言って断った。牛10頭と言えば、ひと財産。それだって自分の目で確かめる必要がある。この人もある意味、仕方のない理由で招きを断った。3人目は、妻を迎えたばかりなので行く事ができませんと断った。当時、新婚家庭では妻を喜ばせるために兵役や公務が免除されるという律法があった(申命記24章5節)。彼はこの律法に従って招きを断ったと考えられる。この当時、招待は二重の手続きを経てなされた。まず1回目のお知らせを出し、その招きに対して応じた者に2度目の招待が届けられる。2度目の招待は、直接人がやってきて「さあ、もう用意ができましたからおいでください」と告げる。だからこの3人は、2度目の招待を待っている間に心変りをし、用事が入ったと2度目の招待を断ったわけである。このたとえ語は、もともとはイエス様がユダヤ人に対して語られたもの。この断った人たちはユダヤ人のことを指している。ユダヤ人は旧約聖書の時代に神の民となるよう選ばれた民で、彼らはその招きを受け入れたのである。そういう彼らに今、2回目の招きが届けられた。イエス様がこの地上に来られたというのは、2回目の招きがなされているということ。だが、彼らはそれを拒絶している。このことは、決して私たちと無関係ではない。私たちも洗礼を受けたときに、神の招きを受け入れ、喜びの中に招き入れていただいたのだ。しかしその後の歩みの中で、私たちは心変わりを起こして神の招きを断ってはいないだろうか。洗礼を受けたあとも、神はもっと深く喜びの深みへ私たちを導こうと絶えず招き続けておられる。その招きに対して私たちはどのような態度を取っているだろうか。私たちも自分の生活に差し支えのない限りにおいて、神の招きに応えようとしてはいないだろうか。自分の生活を成り立たせることの方が大切になってしまって、神の招きに応えることは2番目、3番目になってしまう。それは本当に神の招きを受ける道なのか。神はそういう「私たちの都合」を優先して造られている生活を、「神の都合」優先というところから建て直そうとされる。その意味では、神は私たちの人生という名の家をリフォームするのではなく、すっかり建て直してしまわれるのである。あなたの都合が優先されて造られた生活に神の恵みを加えて少しだけ手直しするのではなく、「自分の都合優先」という基礎を取り除き、「神の都合優先」という基礎に据えかえて、すっかり造り直される。そうやって、それまでに知ることのなかった大きな喜びへと神は私たちを招き入れるのだ。断った人たちに代わって、人々から神の恵みを受ける資格もないと軽蔑されていた人たちが招かれることになった。この結末は、福音がユダヤ人から異邦人へと届けられるようになることを意味しているのだが、ここにユダヤ人が神の招きを断った真の理由を見る。招かれる資格もないと思っていた人たちは、この招きを重く受け止め、これを逃すまいと招きに応えるが、自分たちには招かれる資格があると思っていたユダヤ人は、その招きの重みが分からなくなっている。招かれる資格があれば、断る資格もあると考え、次の機会に行けばいいと思ったのである。私たちはどうか。

2012年8月26日日曜日

2012年8月26日 説教要旨


神の招きを受ける道 」 ルカ14章1節~14節 

「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」(1節)。おそらく安息日の礼拝が済んだところなのだろう。会堂司だったと思われるファリサイ派のある議員がイエス様を食事に招いた。私たちの教会でも、礼拝の説教に外部から先生をお招きした場合、礼拝後に先生を囲んで食事をする。共に神様を礼拝した喜びが互いの心を開き、くつろいだ和やかな雰囲気で交わりを楽しむ。おそらくイエス様の時代の安息日礼拝の後の食事も、本来そうあるべきだったに違いない。しかし、その食事の模様は異様なものとなっている。イエスの様子をうかがっていた。隙あらば、イエス様につけ込もうとしていたのである。イエス様の前には水腫を患っている人がいた。当時の考え方によると、不道徳な生活をした報いとしてこの病になる。それゆえ、ファリサイ人のような潔癖さを求める人の家には本来いないはずなのだ。罠として連れて来られていたのか。それとも、イエス様が彼を一緒においでと招いたのか・・・分からない。いずれにしても、イエス様はこの水腫の男を受け入れておられる。そしてファリサイ派の議員やそこにいた律法の専門家たちに向かって言われる。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」ここで「許されているか、いないか」と訳されている「許す」という言葉は、原文では「外に出る」という意味の言葉。外に出ている、自由である、そういう意味の言葉。当時のファリサイ人や律法の専門家たちは、どこまでなら労働にならず、どこからは労働になると言った具合に枠を定めていた。安息日は働いてはいけない日だったのである。もちろん、医療行為も枠をはめられていた。そこでイエス様は問われる。「この水腫の男の苦しみを思って、それを取り去るために、その掟の外に出る自由はあなたがたにはないのか。この男の苦しみを受け入れる思いで、この男を癒してあげようとひたすらに思う思い、もし癒すことができなくても、この人のために祈ろうとする思いは、あなたがたにはないのか」と・・・。この問いをよく心に刻んだ上で、7節以下のたとえを読もう。両者は深く結びついているのだから。

 7節以下のたとえ、宴会の上席、末席、どちらに座れるか、というたとえ話は何の説明もなくよく分かるような話だと思う。特に、遠慮することを美徳とする私たち日本人にとっては。これは後で恥をかかないように、最初は末席に座っていて、ホストに案内される形で上席に移るようにしなさいという、言わば宴に招かれたときのエチケト、作法を教えているものではない。私たちは、自分が周りのどのように評価され、それに見合う正当な扱いを受けているかを気にする。進んで末席に座りながら、そこから上席に案内してもらえなかったら、「失礼な」と言って腹を立てるのである。そこには、自分の評価に対する自信がある。内心、人は皆、高く評価されることを求めている。求めても得られないと、妬みを抱く。その妬みの心は、高く評価されたいという心のあらわれでしかない。だがイエス様は、評価を求める私たちに「真実に低くなれ」と言っておられる。後でちゃんと高くしてもらえるように、最初は低くしていなさいと言うのではない。本当に神の前に、いつでも低くなっている者であれと言っておられるのだ。このたとえ話の最も適切な注解は、放蕩息子のたとえ話だと思う。放蕩の限りを尽くし、もはや息子と呼ばれる資格もないと自覚した弟息子は、父が自分の帰還を祝って開いてくれ宴会の席のどこに座ろうとしただろうか・・・。末席はおろか、自分には席画なくて当然と思ったに違いない。だが父親は、変わらずに彼を息子として扱い、上席に座らせたであろう。それが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)という御言葉の意味するところである。この弟息子の姿と神の御前における私たちの姿とはひとつに重なるであろうか・・・。あのとき、兄息子はその祝宴に参加しようとさえ、しなかった。彼のプライドが許さなかったからである。この兄と、私たちの姿は重なってしまうのであろうか・・・。低くなるのだ。神の御前に真実に低くなるのだ。自分は本来、神から恵みを受けるに値する人間なんかではないのだと。イエス様は髪の御前に低くなることを認めておられる。そうやって神の御前に低くなったとき、初めて見えてくるものがある。それは神の憐れみの高さだ。神の憐れみがどんなに高いものであるか、それが見えてくる。そしてそのとき、イエス様がこの水腫の男にしてくださっている御業が何であるかもはっきりと見えてくる。だが、自分は神から恵みを受けるに値する人間だとうぬぼれて、自分を高みに置いていたファリサイ派や律法の専門家たちにはその御業が見えなかった。神の招きを受ける道、それは低くなること。神の御前に本当に低くなること。自分は神の御前に誇れるものなど、何もない。神の憐れみによらなければ御前に立ち得ない者。私たちは皆、この神の憐れみの中に立つように招かれている。神の招きを受けている。

2012年8月19日日曜日

2012年8月19日 説教要旨


主イエスの嘆き 」 ルカ13章31節~35節 

私たちは口には出さないまでも、いろいろな祈りの課題を抱えてこの礼拝の場に集まる。ここに座りながら、なぜ、この苦しみがまだ続いているのですかと祈り、あるいは喜びにあふれて、感謝を捧げている方もいるだろう。神の御前に集まって、それぞれに心を注ぎ出している。そういう私たち礼拝する者の心を詩編61編は適切に表している。「神よ、わたしの叫びを聞き、わたしの祈りに耳を傾けてください。心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。あなたは常にわたしの避けどころ・・・あなたの翼を避けどころとして隠れます」と。私たちは、この詩編が歌うように、悲しみや苦しみを抱えたまま右往左往してしまう自分たちを、神のみ翼で覆っていただきたい。私たちの避けどころとなっていただきたいと願う。よく世間一般では、神を信じるというのは、心の弱い者がすることであって、結局のところ、この世の厳しさから逃避しているだけではないか、と非難されることがある。しかし詩編の中では、私たちは逃れる場所を持っているということが誇らしく歌われているのだ。お酒を飲むところに逃げ場を見つけるわけでもなく、遊びにふけることに逃げ場を作るのでもない。神の御前に私たちは逃れ場を持っている。そこで神のみ翼に覆っていただく、それに勝る平安はこの地上のどこにもない。

今朝の福音はルカ13章31節以下、イエス様の嘆きの言葉が記されている。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(34節)。イスラエルの民は、旧約の時代から新約の時代に至るまで、ずっと主のみ翼に自分たちが覆われることを願い続けて来たのではなかったか。そして今、御子イエス様が遣わされ、神はこの御子を通して、イスラエルの民をご自身のみ翼のかげに憩わせようと、その翼を大きく広げてくださっているのではないか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様は言ってくださった。それなのにお前たちはわたしの翼のかげに憩うことを拒否したと、イエス様は深く嘆いておられる。なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。

イスラエルの人々はイエス様が語られる神の国よりも、もっと別のことを神に望んでいたのだ。それはイスラエルの国が政治的、軍事的にローマの支配から独立して国を再興すること。神が救い主を遣わして、それを達成してくださることを人々は期待していた。つまりイエス様が語られる罪の赦し、罪からの解放と言う福音は彼らが切に望んでいたものではなかったのである。神が与えてくださろうとしているものと、自分がほしいと願っているものとのギャップ、そのために彼らはイエス様を拒絶してしまったのである。私たちもまた同じ経験をしていることだろう。神が与えようとしておられることと、自分の願いが異なる。そのとき、私たちはどういう態度をとるだろうか。イスラエルの人々は、そのような理由で旧約の時代から神の預言者たちを殺し続けてきた。すなわち、神の言葉を殺して来たのである。そして今、神の言葉を語られるイエス様をも拒絶し、殺そうとしている。ここに登場するヘロデは、自分の意に沿わない神の言葉を語った洗礼者ヨハネを殺してしまった。一方でヨハネが語る神の言葉に関心を示して耳を傾けてもいたのだが、結局は殺してしまった。神の言葉は・・・・神以外のものに頼って平安や静けさを保とうとする生活の中に飛び込んでくるとき、その静けさを打ち破る。そして本当にそれでいいのかと、私たちの心を揺さぶり始める、そういう言葉だ。そのとき、私たちの存在が根底から揺り動かされる。けれども大事なことは、そこから揺り動かされて、神の翼のもとに立つことなのだ。そこでこそ、本物の平安、憩いを得ることができる。光市の母子殺害事件で被害者となってしまった方は、加害者に死んだ家族と同じ目に遭わせたいと願い、裁判を起こし、その願いを達成した。しかしその直後の記者会見で、この裁判に勝者はいないと語った。とても心痛む言葉だった。自分の思いを貫き通して勝利しながら、空しさだけが残る。同情を禁じえない。だが、多くの時間を必要とするだろうが、彼が本当の意味で心に平安を覚え、憎しみから解放される唯一の道は、悪に対して悪に報いず、汝の敵を愛せよ、という神の言葉を生かす道にしかないのではないかと思う。自分の思いの成就ではなく、神の思いの成就、神のみ翼のもとに身を寄せてこそ、深く傷を負った人の魂が癒されうるのではないか・・・私はそう信じる。かつてアメリカの大学で銃殺事件が起き、その追悼式が行なわれた。そのときの写真を見たが、33個の石と花束が学校の芝生の上に置かれていた。しかし殺された人の数は32人だったはず・・。そう、あとの1個は自殺をした犯人のためのものであった。追悼に集まった人たちにはいろいろな思いがあつたに違いない。しかしここに神の言葉を殺さないで生きようとしている人たちの姿を見る思いがする。自分の中に生じるさまざまな思いを神に明け渡し、委ねるようにして神のみ翼のもとに身を寄せる。神の言葉が生きて働くように選択をする。私の思いではなく、神の思いが成就するところに、私たちにとっての真の憩いがあると信じよう。イエス様の嘆きの心を信じよう。

2012年8月12日日曜日

2012年8月12日 説教要旨


あなたは入るのか 」 ルカ13章22節~30節 

オリンピック選手たちがメダルというひとつのことを目指して歩む姿に心動かされている。その努力が実ってメダルを手にすれば、自分のことのように喜ぶし、メダルを逃せば、わがことのように悔しく思う。今朝の聖書は、イエス様がエルサレムへと旅を続けられたと始まる(22節)。 ルカは、エルサレムをひたすら目指して進まれるイエス様の姿を何度も伝えている。まるでオリンピックの選手たちのように、ひとつのこと、エルサレムだけを目指して突き進んで行かれるイエス様。エルサレム、それは十字架の場所であり、およみがえりの場所。私たちに対するイエス様の激しい愛、そのすべてを注ぎ出される場所である。果たして・・・・その愛は、実りを得られるのであろうか。今朝の聖書箇所は、書かれている内容を理解することはそれほど難解ではない。しかしそれを心から受け止めてアーメンということは難解な箇所である。イエス様の大変、厳しい言葉が記されているからである。ひとたび、家の戸を閉めてしまった主人は、中に入れてくださいと叫んでいる人がいても、入れてあげないのである。締め出された人たちも必死に弁明する。しかし「お前たちを知らない」と言って、戸を開けることはいない。この主人とは、イエス様のことであるが、あのイエス様が、一体、どうしてしまったのかと思う。こういう聖書の言葉というのは、イエス様の激しい愛、一途な思いでひたすら十字架目指して歩まれる、そこに現されている激しいほど愛をまず知ることがなければ理解できないような御言葉であると思う。

イエス様は「あなたがたがどこから来た人なのか、私は知らない」と言われる。自分がよく知っていると思っていた人から「あなたのことなど知りません」と言われたら、大変、薄情な扱いを受けたと思うだろう。震災以降、絆が大切だ、絆を結ぼうということが言われ続けている。絆を結ぶというのは、お互いに「ああ、あの人のこと知っているよ」と言える間柄になるということ。たくさんの絆で結ばれて、知り合いが多いということが、いざと言うとき、どれほど頼りになることか、私たち日本人は今、身にしみて、体験している。このイエス様の言葉を直接、耳にした人たちもまた、私たち同様、絆ということを大切に思っていたに違いない。人である以上、絆の大切さを無視して生きることはできない。そういう絆の大切さを実感しているところで、イエス様はまるでその絆を自分の方から断ち切るかのように「あなたがたがどこから来た人なのか、私は知らない」と言われるのである。

この言葉を聞いている人たちはユダヤ人である。神様のことなど全く知らないという人たちではない。アブラハムのことも、イサクもヤコブもよく知っている。あれは私たちの先祖、その先祖をあなたは選び、愛して祝福してくださった。彼らの血を引く私たちもまた、変わることなく、あなたの愛の中にいる。私たちは、あなたに選ばれた民・・・・。そういう自負を持っている人たちに対してイエス様は言われたのである。しかしこのことは、私たちにとっても厳しい問いかけとなるだろう。あなたがたは救いの中に入っていると思っている。事実、そうかも知れない。だが、救い中に入ったという安心感の上にあぐらをかいてしまい、いつしかイエス様の激しい愛に繰り返し、応答して行く姿勢を失ってしまってはいないかと・・・。

イエス様は、激しい愛をもって、これらの言葉を私たちに語ってくださっている。イエス様はご自分の十字架を語られるたびに、そこで合わせて、弟子たちに向かって「わたしに従いたと思うものは、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言われた。つまり、イエス様の私たちに対する一途な思いに見合うような愛、あなたたちもそのような愛をもって、わたしに従ってほしい、私を愛してほしいと訴えられたのである。そのことをもう一度、心に刻もう。「狭い戸口から入るように努めなさい」の「努める」という言葉は、オリンピックの競技選手がたくさんの観客に見られながら、競技者として戦うことを意味する言葉から生まれたそうである。それは、他の選手と戦うというよりも、自己との戦いという意味が強いのだそうだ。なるほど、アスリートは本当の敵は自分だ、とよく言う。私たちも自分のうちに働く罪、イエス様との絆を弱め、断ち切ってしまおうと働く、自分の中にある罪と戦うようにと促されているのである。ある本の中に、「もう遅すぎるということがある。まさに愛の世界では」ということが記されていた。愛の世界において、遅くても良いというのは、眠っているような愛、どうでもいいような愛であり、真の愛においては、もう遅すぎるということがあるのだ、と言うのである。遅くても良いというのは、眠っているような愛、どうでもいいような愛。イエス様の愛、どうでもいいような愛ではない。入りたくなかったら入らなくてもいいし、無理に来なくてもいい。そういうものではない。主は私たちを愛しておられる。だからどうしても入って来てほしい。戸が締められてしまうという厳しさは、そういうことではないのか。それは、愛の真剣さの証なのである。このたとえ話は、「救われる者は少ないのですか」という質問から始まっている。まるで他人事のような質問である。あなたは入るのか、入らないのか、従うのか、従わないのか。あなたの決断をイエス様は真剣に求めておられる。私たちも真剣に応え続けて行きたい。

2012年8月5日日曜日

2012年8月5日 説教要旨


神の国の現実に生きよう 」 ルカ13章18節~21節 

「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」、2つのたとえ話が記されている。いずれも「神の国」という言葉で始まっている。「神の国」は「神の支配」を意味している。イエス様はこの2つのたとえを通して、この世における神の支配について語ろうとしておられる。ある人は、神の支配はこの世においては何よりも教会と言う姿をとっていると指摘する。だからこれらのたとえは、教会について語っているのだと言う。なるほど、それもひとつの正しい理解であろう。確かに、これらのたとえは、この世における教会の姿を語っていると読むこともできるであろう。

 最初のたとえは「からし種」のたとえ。からし種は、直径1ミリに満たない小さな種だが、成長すると5メートルもの大きな木になる。大きな葉が広がり、葉の陰に鳥が巣を作るほどになるそうである。このたとえは、このように解釈されてきた歴史がある。「教会はその始まりは小さいけれども、必ず大きくなって行くのだ。極小のものから始まり、全世界に広がる力強い働きへと必ず展開する」と言う具合に。確かにこの世における教会の歴史はそのような歩みを辿ってきたと言える。しかしからし種のたとえは、そういうことを教えているたとえなのだろうか。

よく日本の教会は、小さいと言われる。日本のキリスト者人口も、1パーセントに満たない。それゆえ、日本の教会は社会に対して発言権を持てないのであって、もっと教会が大きくなって、キリスト者の数が増えなければ、社会に対する影響力も強くはならないと・・・・。そして、大きい教会になれないでいる教会はダメなのだと心のどこかでそういう意識を持ってしまっている。しかし、教会は必ず大きくなるという約束、それがこのからし種のたとえの中心ではないであろう。もし、そのように解釈していくならば、教会は世の中で尊重されている価値観、すなわち量・力・数と言ったことに巻き込まれ、踊らされているに過ぎなくなると思う。私たちはもっと「からし種の小ささ」に目を向けるべきであると思う。すなわち、このたとえの強調点は「小ささの中に、すでに決定的な力を秘めている」と言う点にあるのである。次に登場するパン種のたとえも同じことを言っている。パン種は非常に小さいけれども、パンを大きく膨らませる力を秘めている。小ささの中に決定的な力が秘められているのである。教会はそこにいつも目を向けなければならない。

 小ささの中に秘められた決定的な力とは何か、それはイエス様ご自身のことである。教会は、それがどんなに小さな群れであっても、その中にイエス様という決定的な力が秘められている群れなのである。それゆえ、教会は「自分たちは小さいから」と言って、恐れる必要もないし、自己卑下する必要もない。

神はこの世における神の国、教会を、小さな群れとしてお建てになる。それはこの世の支配者たちが作る国とは反対である。この世の支配者たちは、たくさんの人々を集め、その上に国を建てる。古代エジプトの王が建てたピラミッドは、そういうこの世の支配者の特質をよく示している。下には巨大な基礎を持ち、上は尖端で終わっているのだ。しかし神がこの世界に神の国を建てようとされるとき、それはピラミッドとは「逆の姿」で建造される。その建造物の基礎は天にあり、その尖端は天から地上にまで達している。神の軍勢のうち、ただその細い尖端だけが小さい群れとして地上にその姿を現している。それがこの世における教会の真の姿なのである。もしかしたら、地表に接している部分は2人または3人がイエス様の名によって集っている群れであるかも知れない。しかし大きい教会も小さい教会も皆、天においては同じ基礎につながっているのである。そして、どの教会も、等しくイエス様という決定的な力を秘めた方が共におられるのである。だから私たちは、この世の中で自分たちが小さいことに対して勇気を持っていい、恐れなくていいのだ。私たちが行う業は、この社会の中にあっては極めて小さく、影響力も取るに足らないものであるかも知れない。しかし教会の一員である私たちがなす業はすべて、天の軍勢につながっている者としての業であり、決定的な力をお持ちであられるイエス様が共におられるところでなされる御業、私たちが今、行なっている小さな働きはやがて完成する神の国の先端に組み込まれているのであるから。

あるキリスト者が知人に宛てて書いた手紙の中の一部を紹介しよう。「アメリカでテロが起きました。私たちは2人とも戦争中に物心つき、疎開地で敗戦を迎えた世代です。『戦争さえなければ・・・』という思いでこれまで生き、子どもを育てて来ました。その歩みを根底から覆されるような出来事でした。紛争や混乱は世界に波及し、特にインドネシアの情勢を皆が心配しています。そんな中でジャカルタに住む長女から『今度の4月に3人目の子どもを生む』という報告が届きました。私たちはこれを宗教改革者マルティン・ルターの言った『たとえ明日、世界が滅びても、今日、私はりんごの木を植える』という言葉のように聞きました。絶望の流れを見てあきらめるか、はかなく小さな業と知っていても希望に賭けるのか、『生きる』とはその選択なのだと思っています」・・・。私たちは神にあって、その小さい働きに希望をかけることができるのだ。この世における神の国の現実に生きるとは、まさにそういうことであり、私たちはそう生きられるのである。

2012年7月29日日曜日

2012年7月29日 説教要旨


安息日を聖とする 」  ルカ13章10節~17節 

今朝の福音の出来事は安息日に起きた。安息日は、神がイスラエルの民に与えられた掟のひとつであり、出エジプト記には「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と記されている。聖別するとは、どういうことであろうか。そこでこういうことを話してみたい。聖書の中に登場する祭司は、神と人々との間に立って宗教的儀式を執り行う。彼らは、聖なる神に近づいて儀式を行なうので、神からの清めを受け、聖なる者とされる。すなわち、神の聖さを身に帯びるのである。神の聖さを帯びた祭司は、さまざまな誓約を受ける。たとえば、家族以外の葬儀に出席することを禁じられる。聖さのグレードがさらに高い大祭司に至っては、家族の葬儀の出席も許されない。聖さを死に近づけてはならないのである。それは、神の聖さは命を象徴しているからである。聖さと命は深く結びついており、反対に汚れと死も深く結びついているのだ。したがって、安息日を聖別するというのは、それを命の満ちる日にしなさいということ、生きている喜びが満ち溢れる日にする、それが安息日を聖とするということの意味なのである。

 そういう観点から今朝の物語を読むとき、そこには命が満ち溢れるという喜びは、全く影を潜めてしまっているのではないか。18年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったままの女性。彼女に同情を抱くものはいなかったのか・・・。彼女の苦しみを取り去ることができない自分たちの無力を嘆きながら、その痛みのために共に祈るものはいなかったのか。命が満ち溢れる安息日の礼拝であるならば、この女性の弱さや痛みが皆の配慮の中に置かれ、皆の祈りの中に置かれるべきでなかったか。もしそうされているならば、その病が癒されなかったとしても、彼女に仲間がいるという支えを得て、命が満ち溢れるということが起こりえたのではないか。だが、そのような気配は全く感じられない。むしろ、イエス様が彼女を癒されたとき、礼拝の責任を負っていた会堂長が腹を立て、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と文句をつけたほどである。イエス様の治療行為は、立派な労働とみなされ、安息日の戒めに反する行為であると非難されてしまったのである。しかしイエス様は、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と反論された。安息日は、命が満ちる日であるべきだ。生きていることの喜びがあふれる日であるはずだ。私はその原点を取り戻すと言われるのである。イエス様は彼らの安息日に革命を起こそうとしておられるのだ。そこで私たちの安息日はどのようになっているかと考えさせられるのである。イエス様に革命を起こしてもらわないといけないようなものになっていないだろうか・・・・。

 安息日は、「いかなる仕事もしてはいけない」とある。これは実に深い意味を持つ言葉だと思う。なぜなら、多くの現代人は、何かの活動をし、何かの成果をあげる、つまり働くことによって、自分の価値を見出し、生きる喜びを味わおうとするからである。反対に、働くことをやめるというのは、何か自分が不必要な人間、もはや生きる意味のない人間になってしまったと感じているのである。安息日の戒めは、あなたがどんな働きをするかということによって、あなたの命の価値が計られてはならない。むしろ、あなたがただ存在しているということこそが、命が満ち溢れる根拠とならなければならないと告げているのである。私は思う。18年間腰の曲がった女の人は、仕事なんか全くできなかったのではないかと・・・。働くこともできなくなった自分は、ただ皆の足を引っ張るだけの存在で、とても生きる喜びなんて感じられない。むしろ、生きることは苦しみでしかないと感じていたのではないか・・・・。働いて何かの成果を生み出すことに大きな価値を見出そうとする社会は、この女性の存在価値を否定し、彼女の中に命が満ち溢れることを妨げる方向に作用していたのではないか・・・。それは今日の社会においても、あてはまることなのではないのかと・・・。安息日は、何よりもあなたの存在そのものを神が喜んでいてくださることを覚える日であり、その神の喜びを私たちの喜びとする日なのである(神の喜びを共有する日)なのである。イエス様は、そういう安息日を取り戻そうとしておられる。ちょうどロンドンオリンピックが始まった。メダルを取ることを期待されながらも、それに応えることができなかった選手が、自分の存在まで否定するかのような発言をしたり、メダルを取れたときに初めて自分の存在を認めてあげられるみたいな発言を聞くと、ひどく胸が痛む。私たちは労働の分野だけでなく、スポーツでも、あらゆる分野において功績主義のとりこになっており、功績を生み出せない者は存在する価値もないという恐ろしい価値観のとりこになっているのではないか。宮井理恵姉が幼子を腕に抱いて「生まれて来てくれただけでうれしい」と言っていた。存在がすでに大きな喜びとなっている。神様も私たちのことを同じように見てくださっているのだ。高齢になると、何もできなくなった自分は意味のない存在だと思えてくるかも知れない。しかし安息日規定はそういう思いと戦うことを私たちに求めている。皆で共に戦うことを。

2012年7月22日日曜日

2012年7月22日 説教要旨


悔い改めなければ 」  ルカ13章1節~9節 

イエス様の時代、人が災害や不幸な出来事に遭うと、これを神の裁きだと理解する傾向があった。当時、ユダヤを支配していたローマの総督ピラトが、ガリラヤに住むユダヤ人を殺害した。彼らは過越の祭りで犠牲の動物を捧げている時に殺害されたようだ(1節)。言わば、礼拝の最中に殺されたのである。礼拝の最中に、しかも暴力によって・・・人々は、よほどこの人たちは罪深い人たちだったに違いないと思った。そういう思いをイエス様は見抜かれて、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2節~3節)と言われた。つまり、それは災難だったのであり、天による裁きではないと・・・。シロアムの塔による事故も同じこと。それは天罰ではない。人が災難に見舞われるというのは、その人の罪が重いとか軽いとか、信仰があるとかないとか、あるいは信仰が強いとか弱いとか、そういうこととは関係がない。罪が重いから悲劇に見舞われたのでも、悔い改めて信仰を強めれば悲劇から逃れられるのでもない。信仰があったって、災難に遭うことはあるのである。

誰かに突如として襲いかかった災難を見ながら、これは何か罰を受けるに相当する理由があったからなのではないかとする考え方は、突き詰めると「私が災害を免れたのは私が罪深くなかったからだ。私はあの人たちとは違うのだ」という、言わば「分離」の考え方に根差す。そして「ああ、私でなくてよかった」という感謝からは、何も生まれないのである。災難に遭った人たちと自分を切り離してしまうだけである。そういう考えに対抗して、イエス様は「あなたたちも同じように悔い改めなければ滅びる」と言われる。「悔い改める」というのは、「向きを変える」こと。今までの生き方、その向きを変えることであり、神に背を向けた生き方から、神の方を向いて生きようと向きを変えるのである。誰かに災難が降りかかったときに、何かの理由があったのだろうと詮索して、「でも私にはそんな理由は見当たらないから安心だ」とする「分離」の考えは、神に背を向けた生き方でしかないのである。その生き方から向きを変えてなければ、皆滅びるとイエス様は言われる。分離ではなく、「連帯」なのである。「私は災難から免れて良かった」と感謝するのではなくて、この災難を自らの苦しみとして、災難に遭った人たちと一緒になってこれを受け止める、連帯して行くのである。それこそが神の方を向いた生き方なのである。

他者の受けた災難は、私たち全員に与えられた課題なのだ。どこまでその重荷を一緒に担えるか、共に苦しめるか、そのことを神様はご覧になっておられる。私たちに問うておられるのです。この世界で生きて行くために必要な悔い改めとは、襲いかかった災難を傍観するのではなく、自らの痛みとして共感し、可能な援助を模索することなのである。

創世記2章18節で主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われている。これは夫婦の関係を教える御言葉というだけでなく、もっと広く、人と人との関係は本来、助け合う関わりであることを告げている御言葉である。つまり、私たちは連帯する者としていのちを与えられているのである。

今、「長い棒に短い棒。支え合ったら人になる。支えるから人なんだ」というAC広告が流されている。漢字の「人」という字は、長い棒と短い棒、個性の違う2つの棒が支え合ってできている。支え合ってこそ、人になると言うのだ。これは、聖書の真理に合致するぞ、国が聖書の真理を広告しているではないかと、喜んで息子に伝えると、「僕には長い棒が短い棒を圧迫しているように見えるけど」と言った。これまでの彼の人生経験がそのように解釈させたのだろう。だが、案外多くの人が同じような思いを抱くのではないだろうか・・・。現代の社会は、長い棒、すなわち能力の高いものが、能力のより低い短い棒を支配し、利用する。あるいは分離し、端に追いやっている社会ではないのか。「二極化」は、まさにその現れでしかない。競争力を高めるとか、自立を促すというスローガンのもとに、支え合う仕組みが社会から失われるのは、聖書の真理に反する社会になっていることなのである。確かに競争は必要なこと。だが歯止めのない競争は、支え合う、助け合う仕組みを社会から奪い去る。イエス様はこの御言葉をもって、現代人の悔い改めるべき罪を見ておられるのである。悔い改めなければ、皆、滅びるほどの罪を見ておられるのだ。

6節からのたとえでは、イエス様と父なる神様とのやりとりが、園丁と主人の会話という形で表されている。私たちが悔い改めて、聖書の示すように、支え合い、助け合うという「実り」を結びようにと、忍耐し、とりなす姿を表したものである。主人は、実を結ぶ期間をもう3年も過ぎてしまっているのに、園丁のとりなしの言葉の通りに、待つことにする。園丁の方も、3年を無駄に待った上に、その上になお、「木の周りを掘って、肥やしをやってみよう」と言う。ここで言う「肥やし」とは、私たちがするように、不要な物の寄せ集めではない。この園丁は最も大切なものを肥やしとして与える。そう、自分の命を与えるのである。十字架の死・・・。私たちの人生には、主の命という肥やしが注がれている。

2012年7月15日日曜日

2012年7月15日 説教要旨


正しい判断ができるために 」  ルカ12章49節~59節 

「画龍点睛」、絵に描かれた龍に画家が瞳を点じると、たちまちその龍にいのちが入り、龍が天に昇ったという故事から生まれた言葉。瞳を点ずることによって、死んでいたかのような龍がいのちを得る。いのちが入ると天にまで昇る。私たちの信仰にとっても、そういう画竜点睛がある。私たちにとって、その一点とは「イエス・キリストに結びついているということ」であり、問題は何によって結ばれているかということなのである。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)という御言葉は、主に結びつこうと願う私たちをはねのけるような、私たちになじまない御言葉である。しかしなじまないならば、それを受け流し、自分の心にスーッと入ってくる御言葉だけを繰り返して聞いていれば、それで良いということにはならない。ある画家の長老から聖句入りの絵ハガキをたくさんいただいたことがある。しかしそこには「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません 」(エフェソ4章26節)とか、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(ヨハネ3章15節)という御言葉が記されていた。思うに・・・・ここにこの方の信仰の根性が現れているのである。聖書の御言葉というのは、そのすべてが神から私たちに投げかけられているものであって、それを私たちの側で勝手に選別してよいものなのか、私たちはどんな御言葉であっても、それを神からのものとしてきちんと向き合う姿勢を持たなければいけないのではないか。そこにこそ、真実にキリストと結びつく信仰が育まれる道があるのではないか・・・、この方は、そういう信仰に立ってこれらの絵ハガキを作られたのだと思った。

 私たちは、自分の罪に気がつかせるような御言葉と向き合うことを素直に喜ばないところがある。今朝の御言葉はそういう御言葉である。たとえば49節に「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」とある。私たちが生きているこの世界には、すでにたくさんの火が燃えている。改めてイエス様に火を投じてもらう必要もないほどに。「戦火」という言葉のように、人を燃やし殺してしまう火が、怒りの炎が、憎しみの火が燃えている。それらの火はイエス様が燃やしたいと願われる火ではない。そしてイエス様が投じられる火というのは、そのような間違った火を燃やしてしまう私たち人間の罪を焼き滅ぼしてしまう「裁きの炎」なのである。

だが同時に、今朝の旧約、マラキ書3章1節以下にあるように、神の裁きの火は私たちを精錬する火、すなわち清める火でもあるのだ。私たちの罪を裁き、その裁きを通して私たちを赦し、清め、生かす火なのである。そうでなければ、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言うイエス様の言葉を理解することはできない。50節の「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」という言葉は、裁きの火が投じられるとき、その火は本来焼き尽くされるべき私たちではなく、イエス様ご自身を焼き尽くす火となることを示す、すなわち十字架を指し示す言葉である。

私たちは、主が十字架につけられている姿と向き合い、それを凝視するところでだけ、本当は厳しく裁かれるべき自分の姿を垣間見ることができる。裁かれるべき私たちの罪がどんなに恐ろしいものであるかを垣間見る。だが同時に、その裁かれる主のお姿の中に私たちは神の赦しを見る。罪と赦しを合わせ見るところで、私たちはキリストと真実に結び付けられるのだ。ヨハネ8章の姦淫の罪を犯した女性は、イエス様の「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げよ」との一言によって彼女を裁こうと集まっていた人々が皆、その場を立ち去ってしまったにもかかわらず、彼女はただ一人残っておられた主のもとを離れようとはしなかった。彼女は知ったのである。自分の罪の問題は、この方を離れてはどこでも解決できないと。この方だけが私の罪を裁き、そして赦すことができるお方なのだと・・・。そのとき、彼女は自分の「罪とその赦し」という一点においてキリストと結びつき、画竜点睛の一点をその人生に書き込んだのである。

私たちがそうやってキリストと結び付けられるとき、私たちはそれまで結びついてきたものを振り落とさなければならない。それがどんなに自分の愛している家族であろうが、キリストへの結びつきを妨げるものは、一度、振り切られなければならない。それらのものをもう一度、主との関係から受け取り直せるために。

主が火を投じられるという御言葉の中に、主の招きの声が聞こえている、確かに聞こえている。イエス様は「時を見分けよ」(56節)と言われる。地上に火をもたらすイエス様が今、ここに来ておられる。あなたにとって、今は決断の時、かけがえのない時が来ているのである。だが、その時はいつまでも続くものではない。57節からの「訴える人と仲直りする」という話、仲直りのチャンスは裁判の場に到着するまでの間なのである。裁きの場に着いてしまってからでは手遅れとなる。この、あなたを訴える人というのは神様のこと。今の時を正しく判断して、イエス様を受け入れ、神と仲直りせよと主は招いておられる。 

2012年7月8日日曜日

2012年7月8日 説教要旨


目覚めて生きる 」  ルカ12章35節~48節 
 今朝、私たちが心に刻みたいイエス様のお言葉は「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(35節、36節)である。これは、主人が帰って来たときに、足元を照らし、すぐに主人の足を洗うことができるように備えていなさいと言うことである。使徒信条で告白しているように、天に昇られた主は再び、この地上に来られる(再臨)と私たちは信じている。これは聖書の中の最も大切な信仰のひとつである。私も牧師としてこの再臨の信仰に支えられていることをよく実感する。牧師は人の死に立ち会う。ご遺体を火葬するために釜の中に入れる時は、最もつらい時である。しかし、そこで思う。これで終わりではない。やがてイエス様が死の彼方から再び来てくださり、故人を永遠の命へとよみがえらせてくださる。これで終わるのではないと・・・。もし、その信仰がなければ私たちにとって死は空しいものでしかない。私たちは再臨の信仰に立って、愛する者の肉体をイエス様の命の約束の中に置くようにして、火葬にふすのである。再臨信仰は大切な教えだ。

 ところが、この再臨を待つ信仰が崩れ始めるという事態が、このルカ福音書が書かれた時代の信仰者たちの間で生じていた。その頃の信仰者は、イエス様はすぐにでも天から戻って来られると信じていた。ところが、いつまで待ってもイエス様はお戻りにならない。不安になる。疑いが生まれる。そこでルカは、主の再臨を期待して待つようにと、これらの言葉を福音書の中に書き残したのである。

「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て」(46節)とあるように、主はいつ再臨なさるか、それは私たちには知らされていない。だが、いつか分からない時を待つことは人間にとってストレスとなり、苦痛となる。ある信仰者は、再臨を待つ姿勢を崩さないために、自分を戒める文章を書き、それをことあるごとに自らに読み聞かせていた。私たちは自分の信仰生活の中で、再臨を待つという信仰をどれほど大切なこととして位置づけているか、問われる思いがする。

 ところで、再臨を待つ姿勢とは具体的にはどういうことであろうか。ただボンヤリしながらその時を待つのではない。用意しながら待つのである。その用意とは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる 」とあるように、主人の心を知っているのだから、その心に応じて生きているのである。それが用意をしているということ。つまり「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」(42節)と言われているように、他者、隣人に対して糧を与える者、隣人を養うものとしての働きに打ち込むことである。自分が何とか生きていればよいと言うのではなく、隣人に関わり、隣人を生かすことによって、隣人に糧を与えることによって生きる。隣人と一緒に生きる、それがイエス様を待つ姿勢、用意している姿なのである。その反対は、「下男や女中を殴ったり」(45節)、つまり生かさないで殺す、否定することなのである。他者の命を尊べないでいるこの僕、用意のできていない僕は、自分自身のことも尊ぶことができていないのである。自分を愛することができたとき、はじめて私たちは他者を愛することができるようになるのだから。この僕は、自分自身の人生に対して、自分のしている業に対して、自分自身に対して、それを受け入れることができず、どうせ自分なんて・・・どうせ私のしていることなんて・・・と否定的にしか受け止められないでいるのである。確かに、他者を生かすための私たちの業というのは、小さく、時として何の実りもえられずに挫折し、空しいものにしか感じられないことがある。しかし再臨の主は、私たちの小さな業を受け止めてねぎらってくださる方、私たちの傍らに立ち、「よくやった忠実な僕よ」と声をかけてくださる方なのである。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる 」(37節)と言う。主人が帰ってくると、その主人にせっせと僕たちが仕えるのではなく、主人が僕たちに仕えるという反対のことが起きるとイエス様は言われる。仕事に出かけた母親を待つ姉と弟は、帰って来るお母さんを喜ばせようと料理を作って待つことにした。しかし料理などしたこともない。いつもお母さんがしていることを思い起こしては、それをまねて料理をする。やっとの思いで不恰好な2品が完成。そこに母親が帰宅。それを見た母親は子どもたちを席につかせ、腰にエプロンを締め、手際よく料理の続きを始める。そしてすべてが整ったとき、子どもたちの作った不恰好な料理はテープルの真ん中に堂々と置かれ、その食卓は愛と喜びにあふれるのである。主が再臨されるとき、それと同じことが私たちの身に起きるのだ。主が私たちのつたない働きを受け止め、それを喜び、完成させてくださるのだ。だからどんなに小さな業であっても、隣人を生かす業を私たちは心を込めて行い、主を待とう。再臨は私たちにとって喜びのときなのだから。ベテスダ奉仕女たちは引退後、皆で集まって暮らす。その最後の日々を彼女たち「婚礼前夜」と呼ぶ。その時が近づいた喜びと期待を胸に。

2012年7月1日日曜日

2012年7月1日 説教要旨


悩みが消える 」  ルカ12章13節~34節 
 遺産の問題は家族の分裂を招きかねない深刻な問題。しかしイエス様は遺産の問題の処理してもらおうとやって来た人の求めを断られた。そして、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われた。この返答には、遺産が公正に分けられれば、それで物事は解決するのか。世の中の不公正を解決すれば、人間の問題のすべては解決するのか、それで人は幸せに生きられるのか、という問いかけが込められている。イエス様はその問いに対して、人の命は財産によってどうすることもできないと、明確にご自身の考えを提示される。そしてさらにそのことを深く考えさせるためのたとえ話をされる。

このたとえの中の金持ちは、一般に人が考える理想の生活がある。これから先、何年も生きて行くだけの蓄えがあり、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと言える生活なのである。しかしそれで人は幸せに生きられるのか。大塚野百合さんは、「本当は恐ろしいオズの魔法使い」という話の中で、苦しみがなく、欲しいものは何でも手に入る、これほど恐ろしいことはない。そういうことで人は幸せになれるのか、と問うている。イエス様の言葉で言えば、財産でもって人は命の問題を解決できるのか、と言うということである。

 この金持ちは「愚か」と言われているが、この「愚か」という言葉は、原文ギリシャ語では「理性がない」となっている。だが、彼の行動は実に理性的ではないのか。将来を見通した目を持ち、現状に甘んじない冷静さを持ち、かつ倉を建て替える柔軟さもある。それに加えて、見事な決断力と実行力を持つ。これを理性的と言わずして何を理性的と言うのだろうか、と思うほど。だが主は、彼のことを「愚かな者よ」と呼ばれる。なぜなのか。

 ギリシャ語で読むと、彼のセリフにはいちいち「わたし」という言葉がついているのが分かる。私の作物、私の倉と言った具合に。つまり彼は、神が貸し与えてくださった財産、穀物をすべて自分のものだと勘違いしているのだ。それが愚かと言われる理由だと、ある人は指摘する。またある人は、19節の言葉は通常、祭司が祝福として人に告げる言葉なのだが、彼は自分で自分を祝福してしまっており、それが愚かな理由だと言う。結局のところ、彼の愚かさは一つに集約される。つまり、彼はすべて神抜きで考えていると言うこと。神様を計算に入れていないのである。聖書は、神様を抜きにした理性は愚かなものであると言うのである。彼は賢く振舞ったが、それは神抜きの賢さ、この世の賢さに過ぎない。今日、そして明日をつかさどっている神を忘れている。

 そしてイエス様は、「思い悩むな」とお語りになる。どんなに思い悩んだとしても、私たちは自分の寿命を延ばすことはできない。そう、人間の手の届く領域というものがあり、どんなにしたって手の届かない領域というものがある。なぜ、手の届かぬ領域のことであるのに、あたかも自分の手が届くかのように思い悩むのか。自分の領域を越えて、思い悩むな。烏を見よ。烏はえさをして一生懸命生きてはいるが、それは自分の手の届く範囲内でのこと。彼らは自分の手の届かぬ範囲のことを思い悩むことはない。それなのに、あなたたちは何てことまで思い悩んでいるのか。それは神がお考えになること、神の領域のことではないか。なぜもっと、あなたを養っている神を信頼できないのか。もっともっとわたしを信頼してもいいのだよとイエス様は私たちに語りかけられる。
 神学校を卒業し田舎の教会に赴任した仲間の牧師は、今度の牧師が音を上げたら、もう教会を閉鎖しようという状況の教会に赴任した。彼は悩んだ。そして誰もいない礼拝堂でよく祈った。祈っていくうちに、ここは神の教会、私が仕えてはいるが私の教会ではない。神の教会だという当たり前のことに気がつき、ならば「あなたの教会なのですから、あなたが何とかしてください。あなたが悩んでください」と祈るようになった。するとその後、教会は多くの出会いが与えられ、多くの教会員を迎えることができ、今では会堂建築にまで話が及んでいるそうだ。子どもの悩み、仕事の悩み、健康の悩み、いろいろな悩みが、私たちにはある。悩むなといわれても無理だ。だが、私たちは際限なく悩むことはしない。歯止めが効いた悩み方をする。なぜなら、神の領域のことまで私たちは悩まないでいいのだから。神に任せていい領域があるのだから・・・。 

 主は「神の国を求めよ」と言われる。「神抜き」ではなく、神を計算に入れた生き方をせよということ。多くの人は、神抜きの生き方をしている。そこは財力と武力が物を言う世界。だが、そこでどんなに勝ち続けても、それで人は幸せにはなれない。9.11の事件で、財力と武力の象徴である貿易センタービルが破壊された。あの事件で夫を失った若妻は「夫の突然の死を通して、この世界が和解と寛容と赦しの精神なしには存在できないことを知った」と、人の力だけではどうにもならない、神の力に頼らなくては乗り越えられない現実が、この世にはあることを告白した。神を無視した所で人は悩みから解放されることはない。

2012年6月24日日曜日

2012年6月24日 説教要旨


恐れを捨てて 」  ルカ12章1節~12節 

イエス様は「まず弟子たちに話し始められた」とある。なぜ、群集ではなく弟子たちなのか。それは、イエス様が何よりも弟子たちのことを案じておられたからである。主が案じられたことは、弟子たちが恐れる必要のないことを恐れてしまうこと、心配する必要のないことを心配してしまうことであった。4節に「恐れてはならない」、7節に「恐れるな」、11節に「心配してはならない」とあるように、このときの弟子たちの中には恐れや心配があった。だから主がその恐れ、心配を一生懸命取り除こうとしておられるのである。しかも、弟子たちのことを「友人」と呼んでおられる。友人と言うのは、自分が苦しんでいるときには、一緒になってその苦しみを担い、喜んでいるときにはその喜びを分かち合ってくれる存在。そのような関係にある主が「恐れなくていい。不安にならなくていい」と呼びかけてくださっている。今朝、ここに集まった私たちひとりひとりにも恐れがあるかも知れない、何かの心配事を抱いているかも知れない。しかし、主は同じ言葉で私たちに語りかけてくださっている。

今朝の箇所は3つの話が記されているが、真ん中の部分が「恐れるな」という呼びかけで、それをはさむようにして両端のところでは、弟子たちの心の中にある恐れが、いかなる恐れであるかを明らかにする。まず、1節~3節のところでは、ファリサイ人の偽善が問題とされる。偽善というのは、原文ギリシャ語では「お面をつける」という意味の言葉。役者が登場人物なりきって、それを演じて見せる。本当の自分を隠して、全く他の人物であるかのように自分を見せる。それが役者の仕事です。偽善という言葉はそこから生まれた。本当の自分を隠して、別人のようにして見せるのだ。そこには、本当の自分を人に見られてしまうのが怖いという恐れの心があるのである。「パン種に注意しなさい」という言い方は、偽善を生む心を徹底して取り除けという意味。ユダヤの人たちは過越祭の期間、国中から徹底してパン種を取り除いたらしい。ふっくらしたパンを誘惑に負けて食べてしまわないように。ファリサイ派は、熱心な指導者たちだったが、やがてその熱心を人に見せるようになって行った。神の目よりも、人の目ばかりを意識していたのである。主は、人の目を恐れ、人に自分をよく見せようとする心を徹底して取り除けと言われる。

次に語られる恐れは8節~9節、迫害を恐れて、人前でイエス様との関わりを否定してしまうことへの注意喚起である。体を殺してもそれ以上、何もできない者を恐れるなと。普通なら、体を殺される以上に恐ろしいことはないはず。だが彼らはそれ以上、何もできないと・・・。もし、体を殺すことができるものを恐れて、人々の前で私を知らないと言えば、その場を逃れることはできるかも知れない。しかし神の天使たちの前で、つまり天国でイエス様はあなたを知らないと言う。まことに厳しい言葉だ。
しかしイエス様は弟子たちに対して、ただ恐れるな、恐れてはならないと言われるだけのお方ではない。むしろ、本当に恐れるべき方を恐れることをあなたがたは知りなさい。それが、すべての恐れを克服する道なのだと言われる。

「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で。地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(5節)。人は、神を恐れることを知れば知るほど、他のものを恐れなくなる。もちろん、神を恐れるというのは、他のものよりももっと神様の方が怖いと言って、おびえるようなことではない。神を恐れるというのは、神を愛する、畏れ敬う。信頼するということを意味する。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」とある通りである。筋ジストロフィーという不治の病にかかったキリスト者が、「わたしに何とか治るようにと、お札やお守りを買って来てくれる人がいますが、私はその人にこう言うのです。ありがとう。でも、こういったお札やお守りは生きている間は、気休めになるかも知れないが、死ぬときには何の助けにもならない。しかし、わたしたちの主イエス・キリストは『生きているときも、死ぬ時も、わたしたちのただひとつの慰めなのだ』と」手記に書いている。たとえ私たちが地に落ちるようなことがあっても、私たちは主のものとして地に落ちる。主の御目が注がれている中で地に落ちるのだ。そこに何にも優る慰めがある。

ルカ福音書が書かれた時代と異なり、私たちは命の危険にさらされるような迫害の時代に生きてはいない。しかし、状況は変わっても私たちの人生にはさまざまな恐れや心配の種がある。しかしいかなる状況にあろうとも、私たちは決して見捨てられることない。バーバラという一人の少女は、その生涯において体験した悲しみと喜びの出来事の中で、神が確かに自分にも目を留めていてくださることを知った。私たちもそうなのである。