2011年12月4日日曜日

2011年12月4日 説教要旨

「 正気に返って 」 ルカ8章26節~39節

 クリスマスは何と言っても歌の季節である。1ヶ月あまりのクリスマスの期間だけでは到底、歌い尽くすことができないほどのたくさんの歌が作られている。クリスマスに歌を歌う慣わしは、ルカ福音書2章に始まる。救い主誕生の夜、天に天使の大群があらわれて、「いと高きところに栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の歌を歌った。それがクリスマスの最初の讃美歌で、その賛美の波紋を広げるように、次々と豊かなクリスマスの歌が生み出されて行った。

今朝の福音の物語は音に満ちている。突風が止んだガリラヤ湖、静かに舟を進めて来たイエス様と弟子たちが、ゲラサ人の地方と呼ばれる岸に着いた。多くの人々が歓迎して出て来たわけではない。ひとりの男がやって来ただけである。しかしこの男が騒がしい存在で、イエス様のもとに来ると、わめきながら大声で叫ぶ。それよりももっと度肝を抜くのはたくさんの豚の群れが走る音。崖からなだれをうって湖の中に落ち込んで行く音。そしてルカはこのものすごい響きの後に、突然、静けさがやって来たことを語る。もちろんまだ物音はしている。豚という財産を失った豚飼いたちが騒いだだろうし、一目散にこのことを伝えに町に走りだす者たちもいた。皆、小声ではなかっただろう。けれどもそうやって集って来た人たちが、そこで目にしたのは静けさである。いつもは裸で鎖を引きちぎっては、人々を恐れさせていた墓場の男が、きちんと服を着て、イエス様の足元に座っている。聖書は彼が「正気に返ったのだ」と伝えている。イエス様の足元で正気になって座っている男、その周りには静けさがあり、平和がある。そしてその静けさの中で、この男はイエス様に「お供したい」と申し出る。主の御元にある静けさにずっと生き続けたいと願ったのだ。しかしイエス様は静かに答えられた。「自分の家に帰れ。そして神があなたにしてくださったことを、ことごとく語り続けたらいい」と。その言葉に促されて、この男は家に帰って人々にこのことを言い広め始めた。この男は、軽やかな足取りで我が家に帰っただろう。もしかしたら、道々、歌を歌いながら帰ったかも知れない。今は悪霊の軍勢から解放されて、クリスマスのときの天の軍勢と同じ心で「いと高きところに栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と歌うことができる。私たちは、この男に歌を歌わせるような神の恵みが一体、いかなるものであったかを、時間の許す限り、一緒に思い巡らしたいと思う。

まず、何よりもこの物語の中で私たちの心をとらえるのは、たくさんの豚の群れだ。どうして、悪霊が豚の群れの中に入ることをイエス様はお許しになったのか。こう考えるとよい。医者で健康診断を受けたら悪性の腫瘍があることが判明したとする。自覚症状もなかったので、戸惑いの中、手術を受ける。やがて手術が終わり麻酔から目が覚めると、医者がフォルマリンに漬けた大きな腫瘍を見せてくれる。「こんなに大きなものが、あなたの体の中にあった。でももう、すっかり取り除いたから安心していい。あなたは癒された」と。それと同じことがここで起こっている。自分の目の前で豚の大群がおぼれ死ぬのを目の当たりにしたとき、この男は「自分は何という恐ろしい力のとりこになっていたことか・・・」と、初めて気がついたに違いない。しかし今は、もうその力から解放されている。自分は平和の中に戻ることができた。このイエスという方のおかげで・・・。

私たちは悪霊にとりつかれていた男に隔たりを感じるかも知れない。しかし聖書にこうした人物が登場するときには、一般的な人間の一つの典型として登場して来るのだ。ならばその典型的な姿とは何か。彼はひとりの人間であったが、彼の中には大勢の者も一緒に住んでいた。そのために自分自身がなくなってしまっていた。つまり、大勢の人の声に引き回されて生きているような状態だった。自分の声を持たず、他の人の声に引き回される。いつも誰かの声に引っ張られてしまう。自分で生きていながら、自分というものがそこにはない。この姿は、現代の人間が持っている最も深刻な病ではないだろうか。自分が他人の声の中にいないと落ち着かない。不安になるのだ。そういう状態にいることは、悪霊に支配されている姿と同じなのである。そして豚の末路は極めて象徴的だ。自分の声を持たない人間が群れをなして行動する、その行き着く先は滅びでしかない。しかもこの男がイエス様に最初に言った言葉は人間の根源にある問題を明らかにする。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」。神様との関わりを求めないのである。しかし軸となるべき神様を抜きにして、自分たちの力だけで平和を作り出すことはできない。聴き従うべき確固たる言葉を失った人間は、人の声に惑わされ、右往左往して、結果としてますます不安が増大するだけである。イエス・キリストは、そのような歩みの中から私たちを解放してくださる。この男をご自身のもとにある平和の中に、静けさの中にとらえ移してくださったように、私たち現代人をも、真の平和へと解放してくださるのだ。この男はイエス様にお供したいと申し出た。しかしイエス様はそれを拒まれた。イエス様はこの町から出て行かなければならない。それでもなお、この町の人たちをあきらめることができなくて、この男をご自身の分身としてここに残したいと願われたのだ。ここに私たち教会の姿を見る。