2011年12月25日日曜日

2011年12月25日 説教要旨

神の愛は届いている 」 創世記22章1節~19節

私たちは時として「 なぜこのようなことが起きるのであろうか・・・・。神様は本当にこのことが起こるのをお許しになられたのであろうか。神様のお考えが分からない・・・」。そういう出来事に遭遇する。そういう現実を知る私たちが、このクリスマスの礼拝で聴く聖書の言葉は創世記第22章以下のアブラハムの物語である。

このとき、アブラハムも目に見えない神様が更に見えなくなる出来事が、その身に降りかかっていた。「あなたの愛する独り子イサクを私への焼き尽くす捧げ物として捧げなさい」と神様に命じられたのである。あなたは、私の子孫を空の星のように増やしてくださると約束されたではありませんか。それなのに私のたったひとりの跡取り息子を殺せと言われるとは・・・・。私にはあなたのお考えになっていること、なさろうとしておられることが全く理解できません・・・。アブラハムはそういう神様が分からなくなる出来事が起こった只中で、ただひとつのことだけに思いをグーッと集中させて、神様の示されたモリヤの地へと歩んで行く。そのひとつのことというのは、第22章8節のこの言葉、「焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」。ここで「備える」と訳された言葉は、英語の聖書ではprovideと訳されている。provide、備える、このprovideという言葉からprovidence、日本語では摂理と訳される言葉が生まれた。アブラハムはきっと神様が、その摂理のうちに、すべてのことを整えていて下さると信じたのである。このprovideという言葉は、原文ヘブライ語では「見る」という言葉が使われている。つまり、アブラハムは、「きっと神様が先に見ていてくださる」と言いながら歩み続けるのだ。そしてどこへ向かって歩んで行くのかというと、神様を礼拝する場所へと歩んで行くのだ。モリヤの山、そこで息子イサクを焼き尽くす捧げ物として捧げ、神様を礼拝するのだ。だが、神様を礼拝するその場所で、アブラハムは今まで見えなかったものが見えたのである。それは身代わりの犠牲の羊だった。後に人々は、この出来事が起こった場所を「主の山に備えあり」と呼ぶようになった。「主の山に備えあり」、原文ヘブライ語を直訳すると「彼は見た。見られていることを。主の山で」となる。

アブラハムは見たのだ。自分が神様に見られていることを、神様に見捨てられていなかったことを見た、主を礼拝するその場所で。実際にアブラハムが見たものは犠牲の羊、だがその犠牲の羊を見た時に神様の御心を見たのである。神様は自分たちを見捨てておられるのではないということを見たのだ。たとえ、神様のなさることがまったくもって分からなくなってしまうような中にあったとしても、神様は見捨てておられないことを。

この出来事からおよそ1800年経ったとき、アブラハムがその子イサクを捧げようとしたこの同じモリヤの山で、神様はその独り子イエス・キリストを十字架の上で捧げられた。クリスマスの日に、人としてお生まれになった神様の御子は、十字架の上で「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)として捧げられた。

ヨハネによる福音書の第3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」は、クリスマスによく読まれる聖書の言葉。代々の教会は、この言葉をアブラハムの物語を通してより深く味わった。すなわち、アブラハムの物語は予告編であり、イエス・キリストの十字架は本編であったと理解したのである。予告編も本編も、神様の変わらぬ愛を示す出来事。しかし本編ではもっと決定的にその変わらぬ愛が示されたのである。ゴルゴダの丘には、アブラハムを助けた主の使は現れなかった。イエス様御自身がそのまま犠牲の羊になられた。神様が備えたもう羊、そのものとなられたのである。十字架の上で死ぬために、御子は人となってこの世に来てくださったのだ。それを見れば、私たちがどんなに深く神様に愛されているか分かる。たとえ言葉にできないほどのつらい出来事に遭遇したとしても、なお、神様は私たちを愛してくださっている。どんな時でも神様の愛は届いている。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この御言葉の背後で、神様にはもだえ苦しむような激痛が走っている。独り子をお与えになる、それは神様だから簡単にできるなどとは決して考えられないこと。旧約聖書に登場するダビデという王様は、その晩年、自分の息子に王位を狙われた人物である。その息子の手からダビデを守るために、ダビデの兵卒は命を賭けた戦いの末、息子の命を奪った。そのときダビデは嘆き悲しんだ。自分が代わって死ねばよかったと。ダビデの部下たちにはその気持ちが全く理解できなかった。しかし、この理解しがたい思いこそが我が子を失う父親の思いなのだ。「その独り子」という一句の背後で、神様の思いにはもだえ苦しむような激痛が走っている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、それは言葉にならない父なる神様の思いを、やっと言葉にしたようなものではないか。その苦しみを引き受けてもなお、神様は私たちへの愛を示してくださった。神様の愛は私たちに届いている、どんな時であっても。十字架で死ぬために世に来られた御子はその愛のしるし。