2011年12月11日日曜日

2011年12月11日 説教要旨

「 小さな願いを 」 ルカ8章40節~48節

出血のとまらなかった女性の物語、48節に「あなたの信仰があなたを救った」とあるように、これは「信仰」をテーマにした物語だ。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くと、「私の信仰はイエス様から、あなたの信仰があなたを救ったなどと言ってもらえるような信仰だろうか」と考え始めてしまう。だが、今朝の物語はそういう私たちに確信と勇気を与えてくれる物語である。

「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた」(43節)。治療のためにその全財産を使い果たしたが良くならなかった。しかもこの病は「婦人病」の一種だと思われるが、この時代には宗教的な意味で汚れた病とされていた。誰か他の人に触れると、その汚れが伝染する。それゆえこの病にかかった人は家族から引き離され社会からも隔離され、人との接触が禁じられた。だが、孤独と絶望の中にいる彼女にかすかな期待を持たせる噂が飛び込んで来る。近ごろイエスという方が登場して、自分に似た肉体の苦しみを癒してくれるそうだ。その方が私たちの住んでいるこの地方にやって来ているらしい・・・。彼女は一縷の望みをこのイエスという方にかけて、イエス様を取り巻いている群衆の中にうまく紛れ込んで震える指先で、そっとイエス様の服にさわった。せめてその服にでも触れることができれば治ると信じていたのである。イエス様の服に触れた彼女の手はどんな手だったのだろうかと思う。病のためにやせ細り、弱っていたであろう。助けの手を一番差し伸べてほしかったその手なのに、触れたら汚れるという理由から何度も払いのけられて来た手・・・、そして何度も祈るために合わせた手・・・。その手をイエス様に差し伸べた・・・。そして奇跡が起きた。出血が止まったのである。しかし、ここにはもう一つの奇跡が起こっている。それはイエス様が彼女の手をお感じになったということ。それこそ奇跡ではないか。「イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。しかし、イエスは、『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた」(45節~46節)。ペトロの発言はもっともなこと。しかしイエス様は言われる。「いや、そうではない。確かにたくさんの人たちが私に触れた。しかしまったく違った思いをもって、触れた者がいる。私の体から力を引き出すような触り方をした者がいる。それは誰か・・・」。イエス様は繊細にも、この女性のか細い手から、もしかしたら指先だけで触れたかもしれない、その指先から彼女の切ないまでの苦しみのすべてを感じ取られたのだ。なりふりかまわず、一心にイエス様に期待して、自分の悩みをイエス様に直接触れさせていくような思いを敏感に感じ取り、そして受け止めてくださったのだ。この奇跡は私たちにも起こっている。悩みを携えて、願いを携えて、私たちもこの礼拝の場に来ている。そして祈りの手をそっと合わせる。主は、そのあなたの手を感じ取ってくださる方。あなたの小さな祈りの手に込められたその思い、願いのすべてを感じてくださる、そして受け止めてくださる。その方がこの礼拝にもおられる。

イエス様の言葉に、彼女はもう自分を隠しておくことはできないと悟って、震えながら進み出てすべてを話した。彼女はイエス様のもとで自分の心の中にずっとしまい込んで来た重荷を降ろした。そのときイエス様はこう言われた。「あなたの信仰があなたを救った」・・・。このときの信仰とは何であろうか・・・。彼女は「自分は信仰を持って触りました」と堂々と胸を張ってイエス様の前に出たのではない。むしろそっと帰ろうとしていたのである。きっと彼女も驚いたのではないか。「自分のどこに信仰があったというのか。全く自己流の信仰ではなかったか」と・・・。しかしそれでもイエス様が「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださったのだ。彼女は自分の重荷のすべてをその指先にこめて、直接イエス様に触れさせて行った。体をむしばまれ、財産をすべて失った女性がその自分の重みをイエス様に投げかけた。自分の重さをこの方に預けたのだ。その思いをイエス様は信仰と呼んでくださった。そこに信仰があると、彼女の中に信仰を見つけてくださった・・・。

私たちは、自分に信仰があるかないか、自分の中に信仰があるという実感を求めてしまう。しかし今日の御言葉は、信仰というのはイエス様が見出してくださるもの、私たちのイエス様に対する思いをイエス様があなたの中に見出して信仰と呼んでくださる、そういうものだと告げている。確かにこの女性は、病が癒され治って行くのを体で感じたであろう。しかし著者ルカのタッチ(筆遣い)は、そのことを丁寧に記すのではなく(マルコは記しているが・・)、むしろイエス様が彼女の指先に込められた思いのすべてをお感じになってくださったことに集中している。私たちのイエス様に対する思い・・・それは決して胸を張れるような立派なものではないが、自分の苦しみ、痛み、願い、自分の重さを直接、イエス様に触れさせずにおれない、その思いをイエス様の方で見つけてくださり、信仰と呼んでくださる。「それがあなたの信仰、立派な信仰だよ」と言って受け止めていてくださる。だから私たちは自分の信仰に対して確信と勇気を持っていい。