2011年11月27日日曜日

2011年11月27日 説教要旨

「 こんなところにも道が 」 ルカ8章22節~25節

嵐の中を弟子たちが行く光景が描かれている。これは端的に言って信仰とはどういうものかを言っているのだと思う。信仰は固い陸地の上を進んで行くようなものではなくて、海を渡って行くのに似ている。地図さえあれば、歩いて行けるようなものではなく、「これが道だ」と言えるようなものはない。水の上・・・足元を踏みしめられない。足元がしっかりしていて、そこを踏みしめて行けばよいということではない。また、突風が吹いてくれば、もうどこにも逃げる場所がない。もろ直撃。そやって絶えず揺さぶられるようなことに遭遇する。それが私たちの信仰の歩み。

 22節、「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した」とある。弟子たちはイエス様の言葉に従ったら、危険な目に遭遇した。このことは、私たちの信仰の歩みというのはいつだって問題が待ち構えているということを意味しているのだと思う。この世の悩みなしに試練を受けずにうまくすり抜けて、向こう岸へと到達することはできない。いろいろな問題が待ち構えている、そこを貫いて向こう岸へと渡って行く・・それが信仰の歩み。ここでの向こう岸というのは、単にゲラサ人の地方を意味するのではなくて、もっと象徴的な意味をも含んでいるだろう。おそらく向こう岸は、救いの世界、神の祝福の世界を意味していると思われる。だが、そこへたどり着くには、この世の悩みなしに、試練を受けずにうまくすり抜けて、たどり着くことはできない。平穏な、いい時だけを見計らって向こう岸に渡ることはできない。問題を貫いて、試練を貫いて、初めて向こう岸に着くことができる。それが私たちの信仰の旅の姿。

 けれども、そこで忘れてはならないことがある。向こう岸に行くというのは、単に私たちの願いや決意ではないということ。救い主イエス・キリストが向こう岸に渡って行くことを望んでおられる、私たちと一緒に・・・。だから私たちは出発するのだ。ただ私たちの方で一大決心をして出発するのではない。イエス・キリストが一緒に渡ろうと言ってくださるから、私たちは舟出をする。問題の待っている海に向けて・・・。ここにお集まりの皆さんの中にも、今、自分はとてつもない試練の中にいる。とても厳しい思いをしており、「ああ、あのときの自分の決断が間違っていたから、こういうことになったのではないか」と迷っておられる方もおられるかも知れない。でもそうではない。あなたが今、その状況にいるというのは、主があなたに、「向こう岸に渡ろう」と声をかけてくださったから。イエス様が、あなたと一緒に行こうと、あなたの決断を促してくださったから、今のその状況にいるのだ。表面的には自分の選択の結果と思えるかも知れないが、一番深いところではそういうことなのだ。私たちが困難に遭遇するのは、必ずしも私たちが進む方向を誤ったからではない。主が、そこを貫いて進むことを求められたから、私たちと一緒に進むことを求められたから、私たちは今、そこにあるのだ。

突風が吹き降ろして、舟が水をかぶって弟子たちは慌てた。そして寝ておられたイエス様を起こしてこう言った。「先生、先生、おぼれそうです」。弟子たちの中の少なくとも4人はこの湖の漁師だった。湖のことを熟知していた。しかし突風は、彼らの手に負えなかった。この世の試練、人生の試練は、いくら経験を積んだとしても、人の手だけで負えるようなものはほとんどない。主にしっかりと支えられて行くのでなければとても負い切れない。私たちの経験、知識、言わばマニュアルが役に立たない。それが試練の実態だろう。弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と言った。これは叫び、悲鳴のたぐいであって、祈りではない。切羽詰まってあげた悲鳴。冷静さを完全に失っている者の必死の叫び。祈りの体をなしていない。だからイエス様に「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、あなたがたのあるはずの信仰は突風によってどこかに吹き飛ばされてしまったのか、どこにも見えなくなっているではないかと言われてしまったのである。不信仰の中での叫び、悲鳴である。信仰に根差していないのだから、とても祈りとは言えないだろう。だが、その悲鳴を聞いてイエス・キリストは立ち上がられた。その悲鳴をも聞いてくださる方がいる!!不信仰な叫び、悲鳴をも聞いてくださる方がいる。それが私たち信仰者の支えだ。救い主は私たちの一番情けない、もろい、その底辺にまでおりて来てくださっている。だから叫んでもいい。イエス・キリストが十字架につけられたとき、その両側には2人の犯罪人がいた。そのイエス・キリストが犯罪人の最も情けないところで発せられた願いを聞かれたことを思い起こす。

イエス様が風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言った。この言葉の中には、こういう思いが込められているのだろう。「この方は何という方だ。こんなところにまで道を開いてくださるとは・・・」。弟子たちはもうこれ以上進めない、終わりだと思っていた。しかしこの方はそこに進路を開く。「人間のピリオドは神のカンマ」でしかない。私たちの信仰の旅は、試練に遭遇する。しかしこの方はそこで私たちのために道を開き、必ずや向こう岸、神の祝福へと私たちを導かれる方なのだ。