2011年11月23日水曜日

2011年11月23日 説教要旨

「 あなたの傍らに立つ主 」 ルカ8章19節~21節

イエス様のもとに、身内の者たちがやって来たことが記されている。しかしイエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。冷たい対応だと感じるかも知れない。同じ出来事を記したマルコ福音書を見ると、そのときの事情が記されている。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(マルコ3章20節、21節)。身内の者たちは、イエス様のことを聞いて取り押さえに来ていたのである。気が変になっているといううわさは、悪霊を追い出しているということもあったのだろうが、その異様なほどの暮らしぶりということもあったのだと思う。何しろ食事をする暇もないほどの暮らしぶりであったのだから。その異様な生活をやめさせようと、身内の者たちはやって来たのだ。冒頭のイエス様の言葉は、そういう身内に対する返答だったのである。

 イエス様の暮らしぶりは気が変になっていると評されたのだが、それは何よりも父なる神の言葉を聞いて行なう生活であった。普通は世の中に出て人々に認められ、成功を手にすると、生活は安定し、いくらかゆとりができるものである。しかしイエス様の生活はそういうものではなかった。主は別の機会にこう言われた。「狐には穴があり、鳥には巣があるけれども、人の子には枕するところもない」。それほどに人々の悩みや苦しみに引っ張りまわされていたと言うこと。つまり、イエス様の生活は自分を削るような生活、自分が安定するどころか、益々、慌しくなるような生活だった。小さな子どもが「みんなのお祈りを聞いてイエス様は忙しいね」と言ったことがあった。イエス様は、人々の思いや困窮、それにかかわることにおいて本当に多忙な生活をされていた。考えるに・・・神の言葉を聞いて行おうとするとどうしてもそういう方向へと生活が向かって行くのではないか。およそ、他者を助けるということは身を削るような生活以外のことではない。神ご自身がそのことをイエス・キリストを通して示しておられる。神が私たちを助けられるとき、神ご自身もひどく苦しまれた。犠牲を払われたのだ。人を助ける、支えるというのは、自分の何かを削ること以外のものではない。自分の何かを犠牲にする。時間を犠牲にする。労力を犠牲にするし、痛い思いをする。そうやって初めて私たちは誰かの命を支えることができる。世の人々からすると、そういう生活ぶりというのは異様なのである。誰かのために損をする。時間を使う。誰かの悩みのために引っ張りまわされる。誰かのために苦しむ。それはこの世の常識ではない。損なのだ・・・常識では。しかし信仰というのは、そういう部分を持っていることである。私たちの生活の中に失う部分を持っているということ。あるいは、自分の生活の中に損をする部分を持っているということ。なぜならば、この私たちの命はキリストがそうしてくださることによって支えられている命だから・・・。私たちが生きているこの社会、「ありゃ、変だ」という人がたくさんいる。つまり、賢い人が一杯いる。自分の得になることしかしない。自分の利益にならないことをするのは愚かなことだと考える。自分の利益にならないことのために、自分の時間を使ったり、労力を使ったり、人生をもぎとられることは何か非常に損なことだと考える。何も失いたくない、損をしたくない生き方、要領のよい生き方が、私たちの回りにたくさんある。しかし、そうやって人は自分の命の意味を失っている。利口に立ち回って自分の命を無駄にしているのである。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と主は言われた。痛みや苦しみを様々な仕方で負いながらキリストに従うのである。それが私たちにとっての生きる道であり、救いに通じている道なのだ。痛みも苦しみもない、全く損をしない生き方、安全地帯に立ち続ける生き方、それは決して利口な生き方ではない、否、むしろそういう生き方によって人は命を失っている。自分の命を救おうとする者はそれを失う。自分の命を守ろう、守ろうとして、損しまい、傷つくまい、時間を無駄にしまい、労力をとられまい、そうやって自分の生活を守りながら自分の命を無駄にしてしまう。私たちは生きることの本当の喜びをそうやって失ってしまう。

神の言葉を聞いて行う人たちがイエス様の家族・・・。イエス様の周りにいた人たちを主はそう呼ばれた。つまり、そこにいた人々はイエス様の苦しみによって支えられている人々、イエス様の献身によって支えられている人々、そしてその恵みに感謝して、応えようとしている人々。そして、その人々と一緒にキリストはおられる。まるで身内のように・・。ここに集まっている私たちも神の言葉を聞いて行なおうと労苦している人間ではないか。他者を助けるために何らかの形で身を削っている者たちではないか。そうやって自分の十字架を負って一生懸命歩こうとしている者たちではないか。その私たちの傍らに、まるで身内のように主は近くにいてくださる。だから私たちは苦しみの中で本当に大きな支えを得、本当の命を生きているという喜びをそこで受け取りつつ生きるのである。